初期の冒険
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 05:46 UTC 版)
「ジョン・スミス (探検家)」の記事における「初期の冒険」の解説
ジョン・スミスはイギリスのリンカーンシャー州アルフォードの町近くウィロビーで洗礼を受けた。スミスの両親はそこでウィロビー卿の小作農であった。スミスはラウズのエドワード4世グラマー・スクールで教育を受けた。スミスは父親の死後16歳で家を出て船乗りになった。 スミスはフランス国王アンリ4世がスペインと戦ったときに傭兵となり、後にはオスマン帝国とも戦った。1600年から1601年、ワラキア公国(現在のルーマニア)のミハイ勇敢公が軍を起こしたとき、ハンガリー王国のハプスブルク家に付いて戦い大尉に昇進した。ミハイの死後、ワラキアのラドゥ・シェルバンに付いてモルダヴィア公国のイェレミャ・モヴィラと戦った。 スミスが捕虜になる前に、オスマン帝国の指揮官と3度決闘を行い3度とも相手を倒し殺していた。このことでスミスはトランシルヴァニア公国のバートリ・ジグモンド公からナイトに叙せられ馬を与えられた。しかし、1602年に負傷して捕らえられ、奴隷として売られた。スミスは後に、トルコ人がスミスと恋に落ちた恋人のところへの贈り物として彼を送ったと主張した(おそらくスミスは短期間家庭教師をしており、長期にわたる身代金を払ってくれる人を望んでいた)。スミスはクリミアに連れて行かれ、そこからオスマン帝国の領土を脱出してモスクワ大公国に逃れ、続いてポーランド・リトアニア共和国に入った。さらにヨーロッパや北アフリカを旅し、1604年にイギリスに戻った。
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