初代戸谷半兵衛光盛
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通称を戸谷 三右衛門(1703年 - 1787年)と言い、元禄16年に五代目戸谷伝右衛門の次男として生まれる(光盛は諱)。彼については18世紀末から19世紀の随筆『耳袋』にも記されており、その豪傑ぶりと知名度の高さがうかがえる。ただし、『耳袋』は噂をもとに記述されているためか、戸谷を鳥居と記述しているなど、明らかな誤表記が目立つ。『耳袋』の記述によれば、三右衛門は元々通り油町の仲屋と言う呉服店に丁稚(でっち)から勤め、重手代にまで登りつめた人物とされ、その後、成功して、呉服やその他諸品を商ったとされる。多くの活動が認められ、公での名字帯刀を許されていた。中屋の暖簾印である¬中ム(縦に並べて書く)は三右衛門が考えたもので、『中』は家名の中屋を意味し、こう書くことによって、『虱(シラミ)』と言う字になる。印の意味を訊ねられた三右衛門は、「シラミはよく増えて絶えないから」と答えたと言う。『商家高名録』の中で中屋の暖簾印を確認する事ができる(ムと言うより中の字の下に△)。 明和8年(1771年)に久保橋、安永2年(1773年)には馬喰橋を自費で石橋に掛け替え、天明元年(1781年)には神流川に土橋を掛け、馬船を置き無賃渡しとした。天明3年(1783年)の飢饉時には麦百俵を、また、浅間山噴火による諸物価高騰の際には貧窮者救済金を拠出する等の奇特行為により、名字を子孫まで許される(帯刀については一代限り)。天明7年(1787年)に85歳にして没する。 『耳袋』や『新編武蔵風土記稿』では、光盛(みつもり)ではなく、三右衛門の通称で記述されているが、隠居後も活躍し続けた事で、三右衛門の名の方が世間では有名となった為である。『耳袋』では中屋三右衛門の名で記載されている。
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