初代戸谷半兵衛光盛とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 初代戸谷半兵衛光盛の意味・解説 

初代戸谷半兵衛光盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 18:46 UTC 版)

戸谷半兵衛」の記事における「初代戸谷半兵衛光盛」の解説

通称戸谷右衛門1703年 - 1787年と言い元禄16年五代目戸谷伝右衛門次男として生まれる(光盛は諱)。彼については18世紀末から19世紀随筆耳袋』にも記されており、その豪傑ぶりと知名度の高さがうかがえる。ただし、『耳袋』は噂をもとに記述されているためか、戸谷鳥居記述しているなど、明らかな表記が目立つ。『耳袋』の記述によれば、三右衛門は元々通り油町の仲屋と言う呉服店丁稚(でっち)から勤め重手代にまで登りつめた人物とされ、その後成功して呉服やその他諸品を商ったとされる多く活動認められ、公での名字帯刀許されていた。中屋暖簾印である¬中ム(縦に並べて書く)は三右衛門考えたもので、『中』は家名中屋意味し、こう書くことによって、『シラミ)』と言う字になる。印の意味訊ねられた三右衛門は、「シラミはよく増えて絶えないから」と答えたと言う。『商家高名録』の中で中屋暖簾印を確認する事ができる(ムと言うより中の字の下に△)。 明和8年1771年)に久保安永2年1773年)には馬喰自費石橋掛け替え天明元年1781年)には神流川土橋掛け馬船を置き無賃渡しとした。天明3年1783年)の飢饉時には麦百俵を、また、浅間山噴火による諸物高騰の際には貧窮救済金を拠出する等の奇特行為により、名字子孫まで許される帯刀については一代限り)。天明7年1787年)に85歳にして没する。 『耳袋』や『新編武蔵風土記稿』では、光盛(みつもりではなく、三右衛門通称記述されているが、隠居後活躍し続けた事で、三右衛門の名の方が世間では有名となった為である。『耳袋』では中屋右衛門の名で記載されている。

※この「初代戸谷半兵衛光盛」の解説は、「戸谷半兵衛」の解説の一部です。
「初代戸谷半兵衛光盛」を含む「戸谷半兵衛」の記事については、「戸谷半兵衛」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「初代戸谷半兵衛光盛」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「初代戸谷半兵衛光盛」の関連用語

初代戸谷半兵衛光盛のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



初代戸谷半兵衛光盛のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの戸谷半兵衛 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS