分析命題と総合命題の区別不可能性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 14:51 UTC 版)
「ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン」の記事における「分析命題と総合命題の区別不可能性」の解説
「経験主義の二つのドグマ#分析性と循環性」も参照 1930年代から1940年にかけて、カルナップやネルソン・グッドマンそれにアルフレッド・タルスキーや他の哲学者たちと議論をする中で、クワインは「分析」命題と「総合」命題との間の区別がそれほど強固なものではないのではないかと疑問を持つようになった。「分析」命題とは、ただ言葉の意味によって真である命題であり、たとえば「すべての独身者は結婚していない」といった命題のことである。「総合」命題とは、その真偽が世界についての事実がどうあるかに依存する命題であり、たとえば「猫がマットの上にいる」といった命題である。これら命題の区別こそ論理実証主義にとって核心である。クワインは1951年に発表した論文『経験主義の二つのドグマ』(Two Dogmas of Empiricism)においてこれを批判。クワインの批判によって論理実証主義は衰退したともいわれる。なおクワイン自身は、分析-総合の区別を掘り崩すのに検証主義を用いるほどに、検証主義者であり続けた。 クワインは他の分析哲学者と同様に、「分析的」とは「意味だけによって真である」という定義を受け入れる。他の分析哲学者と異なるのは、定義とは究極のところ循環的であると結論付けるところである(「すべての独身者は結婚していない」が真であるのは、独身者の「意味」つまり、「結婚していない者」という「独身者」の定義によるが、これは同義反復的であり、一種の循環論法である)。くだいて言えば、クワインは分析的言明が定義によって真となることは受け入れるけれど、「定義による真理」なる考えには満足できないと主張するのである。 クワインの分析性に対する主要な批判は、同義語(意味の同等性)という考えに関してのものである。つまりある言明が分析的であるのは、その言明が「全ての黒いものは黒い」という類いの言明である場合だけである(これは論理学における真理も同様である)。同義牲に対する批判は、付帯情報(collateral information)の問題に関わってくる。「すべての結婚していない男は独身者である」という文と「黒い犬がいる」という文の間には違いがあると(前者は「分析的」言明であり、後者は「総合的」言明であるという風に)我々は直感的に感じるが、能力のある英語話者ならば、その両方の文の真偽は(わいろや脅しのような外的要因は除くとしても)状況による、ということに同意するだろう。というのは、能力ある話者ならば、歴史的に黒い犬が存在したかどうかという付帯情報にアクセスすることができるからである。クワインは、普遍的に知られた付帯情報と概念的もしくは分析的真理とは区別がつかないと主張する。しかし、クワインの哲学は、なぜある言明が直感的に「分析的」であると感じられ、ほかの言明はそうでないのかについて、これまでにない納得のいく説明を与えてくれる訳ではない。 分析性と総合性に対するクワインの反発についてのもう一つの取り組みは、論理的可能性という様相の概念から生じてくる。ウィトゲンシュタイン的意味論は、意味のある言明は各々、可能世界の空間にある一つの領域と結びついている、と主張した。一般的にそして自信満々に信じられている[だけの]真理と、必然的に真であるような真理の間には区別はないと論じつつ、クワインはそのような[可能世界の]空間の概念を、問題のあるものと考えた。
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