分析哲学とハイデッガー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「マルティン・ハイデッガー」の記事における「分析哲学とハイデッガー」の解説
1932年、ルドルフ・カルナップは「言語の論理的分析による形而上学の克服」 でハイデッガーの「形而上学とは何か」を批判し、形而上学は芸術の代用品にすぎず、形而上学者は「音楽的才能のない音楽家」でしかないと批判した 。ハイデッガーは講義草稿でカルナップの哲学は「数学的科学性という見かけの下に伝統的な判断論を極端に平板化し、その根を失わせたもの」で、「こうした種類の哲学が、ソ連の共産主義と内的にも外的にも関連しているのも、そしてアメリカにおいてその勝利を祝うことになるのも偶然ではない」と書いている ギルバート・ライルは1928年に『存在と時間』書評で、これは力作だがハイデッガーは分析の対象としている意味を人間の作為と前提とするあまり、その現存在分析は人間学的形而上学に陥っていると批判し、またフッサールの現象学も主観主義もしくは神秘主義として終結するだろうと批判した。ライルによれば、現象学一派における「意味」の概念は、ジョン・ロックやブレンターノの「観念ideas」が実在するという仮説からもたらされた悪しき遺産であるとした。リチャード・ローティや門脇俊介やリー・ブラヴァーは、ライルが命題知識(know-that)とknow-how(傾向性)の区別をして命題知識の表象主義を批判したことは、ハイデガーが表象主義を批判して、没入的志向性の持つ技能的なknow-howを展開しており、ライルとハイデッガーは共通しているとしている。 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはフリードリヒ・ヴァイスマンにハイデッガーが存在について意味していることは想像できると述べている。 1956年にフライブルク大学で哲学博士となりハイデッガーの生徒であったエルンスト・トゥーゲントハットは分析哲学を取り込み、1967年の「フッサールとハイデッガーの真理概念」において、ハイデッガーがアレーテイア、存在の隠れなさ、存在が明るみに出されることとしての真理概念(Entdecktheit)について批判した
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