論理的分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 16:24 UTC 版)
「エピメニデスのパラドックス」の記事における「論理的分析」の解説
「嘘つき」とは決して信用できない者だと定義する。すると「クレタ人はみな嘘つきである」という文をエピメニデスのようにクレタ人が発したとすると、その者の発言も信用できないことになり、クレタ人には嘘つきでない者もいるということになる。一部の論理学者はエピメニデスのパラドックスを嘘つきのパラドックスと同じものとして扱ってきた。 例えば1869年にトーマス・ファウラー(英語版)は著書で次のように述べている。 エピメニデスは『クレタ人はみな嘘つきだ』と述べたが、エピメニデス自身もクレタ人だった。従って彼自身も嘘つきである。しかし、彼が嘘つきなら彼の発言は真実ではないことになり、結果としてクレタ人は正直者だということになる。しかしエピメニデスもクレタ人であるから、彼の発言も真実だということになり、クレタ人は嘘つきだということになる。エピメニデス自身も嘘つきだから、彼の発言は嘘だということになる。このように我々はエピメニデスとクレタ人が信じられるということと信じられないということを交互に結論することになる — Thomas Fowler、The Elements of Deductive Logic しかし、「クレタ人がみな嘘つきというわけではない」から「クレタ人は正直者だ」を導き出すのは妥当ではない。 この文が偽であるとみなせば、矛盾しない解釈や分析はいくつか存在する。この単純な文「クレタ人はみな嘘つきである」の真理値として「偽」を割り当てても一貫して逆説とはならない解釈が存在する。すなわち、正直者のクレタ人が存在するなら「クレタ人はみな嘘つきである」という類の文は偽であるし、エピメニデスは単に嘘をついたと見なすことができる。 ある解釈においては興味深い非対称性が生じる。この文が真だとするとそれが偽であることがはっきりと示されるが、この文がそれ自身を特に指していると解釈しなければ(つまりクレタ人の言葉全般について述べていると解釈する)、それ自体の真偽を示さずに偶然から偽となることもありうる。 当然、この文のようなパラドックスについてのどのような論理的考え方も「すべてのクレタ人」が「嘘つき」だと解釈するかぎり失敗する。通常の文脈では、このような文は全てのクレタ人が「常に」嘘をつくとか、「彼らは嘘だけを述べる」と解釈することはない。「クレタ人はいつも嘘つきだ」と言われても、言葉の様々な意味を考慮すればパラドックスは生じない。例えば「ジョンはいつも No と言う」と言った場合、ジョンが常に "No" という単語しか発しないという意味ではない。実際、歴史に名を残した嘘つきでも時には本当のことを言っており、ある人物の「全ての発言」が嘘だという解釈はあまりにも単純すぎる。「いつも」という言葉は「全ての例において」と一般に解釈され、「あなたが出会うクレタ人は誰も嘘つきだろう」と言う場合の「嘘つき」は単に「嘘をつくことがある人」という以上の意味はない。 エピメニデスの言葉をパラドックスとして扱う場合、もっと難しい論理問題である自己言及のパラドックス、ラッセルのパラドックス、ブラリ=フォルティのパラドックスなどと密接に関連付けられる。これらはいずれも自己言及を特徴とする。実際、エピメニデスのパラドックスは自己言及のパラドックス(嘘つきのパラドックス)の一種として扱われ、時には区別されないこともある。自己言及の研究は20世紀における論理学と数学の発展に重要な役割を果たした。
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