函館の近代競馬の起こり
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「函館海岸町競馬場」の記事における「函館の近代競馬の起こり」の解説
1879年(明治12年)の函館大火の影響で翌13年の招魂社競馬は中止となった。このため時の大書記官時任為基は函館・海岸町で開催された第二回農業仮博覧会の余興として競馬を行ったとされる。費用は時任や開拓使七重勧業試験場長湯地定基、および官吏たちが出したという。時任は函館県設置に伴い函館県令になるが、明治15年2月には農業仮博覧会の用地48000坪に一周440間(約800メートル)コース幅は8間(約14.5メートル)の環状の馬場を設置した。この競馬場で競馬を行うべく明治16年9月函館の有志によって北海共同競馬会社は設立される。発起人は函館大経らで明治16年10月26,27の二日間にわたって北海共同競馬会社として初の競馬を行う。 それまで函館で行われていた競馬は近代競馬からはほど遠い祭礼競馬であったが、1883年(明治16年)10月から始まる北海共同競馬会社による函館海岸町競馬は函館における近代競馬の嚆矢であるとされる。北海共同競馬会社では競馬規則を定め、明治16年10月26,27の二日間の競馬は大まかな番組表が記録されており、記念すべき第1回目のレースは賞金5円の3歳日本馬限定9頭立てのレースで距離は220間(400メートル)で出走料は20銭。10月26日には全部で11レースが行われ日本馬限定距離は440間(800メートル)が7レース、日本馬限定660間(1200メートル)が2レース、最後の11レース目のみ雑種馬のレースが組まれ3歳限定のレースで距離は330間(600メートル)が行われた。第1レースと第11レースは3歳限定だが、他のレースでは年齢は問わないで行われている。賞金は5円から15円、出走料は20銭から50銭である。翌27日にも同じ番組で競馬は行われたが雑種馬の第11レースだけは2日目には行われていない。この時の競馬では勝負服は自由で斤量も設定していない。規則は緩やかで裸馬を禁じたくらいである。競馬場には観客用に幅50間(90メートル)の桟敷席を設け観客の入場料は5銭で6000人余りが観覧したという。翌明治17年5月には第2次の競馬が行われ、その後も春秋の年2回開催されている。 開催回数が増えるにつれ賞金も増えていき、大雑把だった競馬規則もだんだんと整備されていく。斤量も定められ、検量も行われるようになっている。1886年(明治19年)7月に行われた第6次競馬では様子がやや詳しく残っており、開催は2日間で出場馬60頭、レースは1日に9レース行われている。距離は800メートルから長いもので1600メートルで競われ、1等賞金は最高32円に増額されているが出走料も2円と増額されている。1886年(明治19年)7月では北海共同競馬会社の社長には時任為基が就任し函館大経は検査役に就任している。北海共同競馬会社はこののちも競馬を開催していく。
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