兵器・戦術など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 00:46 UTC 版)
長州藩が砲台などに配備した大砲は、長州藩が嘉永年間に三浦半島の警備を命じられた際に佐久間象山の指導のもとに江戸で製造したものや萩の郡司鋳造所で製造したものなどであった。陸戦隊と一緒に上陸したアーネスト・サトウは、他に24ポンド砲、32ポンド砲、青銅製の11インチ砲があったと記録している。これらの長州藩側の大砲は、連合軍艦隊の搭載砲(上記の参加艦船一覧表を参照)よりもはるかに小型で性能が劣っていた。口径差があるのに加えて、長州藩の大砲は砲腔も同時に鋳造する製造方法であったのに対し、連合国の大砲は、砲身を鋳造した後にドリルで削って正確に砲腔を作成する方式であることからも性能差があった。日本では、切削加工による砲腔の作成は、幕府の関口製造所や薩摩藩の集成館で開始されたばかりであった。 1864年の戦闘では長州藩の大砲62門が連合軍に鹵獲され、そのうち54門が参戦各国に戦利品として持ち帰られた。戦利品となった大砲の一部は現存しており、現在パリの廃兵院(アンヴァリッド)に展示されている長州藩の大砲は24ポンド青銅砲と18ポンド青銅砲各1門である。これは長州藩が三浦半島警備用に嘉永7年(1854年)に江戸で製造し、後に下関へ移したものであった。山口県下関市長府の功山寺境内にある長府博物館にも、パリ廃兵院から貸与された戦利品の大砲1門(1844年に萩で鋳造された和製大砲)が展示されている。ほかにイギリス、オランダ、アメリカの博物館に数門の存在が確認されている。 馬関海峡は海峡の両側とも険しい山になっているが、長州藩の砲台はこの地の利を活かすことなく、15箇所 の砲台は、何れも海岸に近い低地に構築されていた。加えて崖の下の砲台も多く、砲弾が崖に命中すると岩の破片が砲台に降り注いでしまうという大きな欠陥があった。また、砲台は正面の敵にのみ対応できるようになっており、複数の砲台が連携しての「十字射撃」はできなかった。他方、連合国艦隊のキューパー提督は、薩英戦争の教訓を取り入れており、複数の艦からの共同攻撃により、各砲台を個別撃破していった。
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