六渡寺渡船組合の発足による渡船の近代化とは? わかりやすく解説

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六渡寺渡船組合の発足による渡船の近代化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:44 UTC 版)

如意の渡し」の記事における「六渡寺渡船組合の発足による渡船の近代化」の解説

明治入ってからも渡船運航地元住民によって継続されており、1874年明治7年当時において船は5艘、船人足は合計9人であった当時渡船利用者一ヶ月平均9,060であったという。しかし、渡船によってではなく架橋によって直接陸路射水川両岸連絡すべきであるという声が高まり射水郡矢田村寺畑善五郎1882年明治15年)に石川県庁へ賃取橋の架設願い出で、翌1883年明治16年1月にこれを竣成実現させた。この寺畑呼ばれ附近住民喜ばれたが、出水毎に損傷してを以てその維持費まかなうことが難しかった。よって富山県私設廃して1898年明治31年2月延長190間、幅員14尺の木橋建設し、これを伏木命名したその後射水川改修工事のためにこの撤去され1911年明治44年4月に再び小矢部川伏木架橋された。 架橋の影響によって渡船利用者減少し1886年明治19年)における一ヶ月平均利用者数は4,050人と架橋以前比して半減したまた、渡守には失業者窮民雇い入れられていたが、容姿服装によって旅客に不快の念を与える者がおり、これを口実悪評吹聴して営利目的とする渡船事業出願する者も現れるようになったこのような状況鑑み六渡寺住民笹谷彦八、紅谷長一郎及び三埜彦四郎発起人として1911年明治44年5月六渡寺渡船組合組織し両岸洋式建築待合所を建設し発動機船の「鹿子浦丸」を同年9月1日就航させるなど、渡船近代化努めることとなった。この「鹿子浦丸」の老朽化により、同組合1928年昭和3年3月佐賀造船所へ約4千数百を以て造船依頼し同年8月より新たな鹿子浦丸を就航させた。渡船営利主たる目的とせず、官公吏学生貧民等には無料乗船許可し伏木港出入する汽船配慮して運航された。 架橋なされて渡船利用者多かった理由は、伏木城光寺橋河口よりやや上流にあるに拘らず小矢部川両端における人口密集地域河口近辺であってまで行くと非常な遠回りになるからであった渡船経営重大な影響与えた伏木は、1938年昭和13年)に大規模な修繕が行われたが、戦時中老朽化のため撤去され陸路によって両岸連絡するにはより上流城光寺橋利用せねばならないようになり、渡船重要性増大することとなった

※この「六渡寺渡船組合の発足による渡船の近代化」の解説は、「如意の渡し」の解説の一部です。
「六渡寺渡船組合の発足による渡船の近代化」を含む「如意の渡し」の記事については、「如意の渡し」の概要を参照ください。

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