六渡寺渡船組合の発足による渡船の近代化
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「如意の渡し」の記事における「六渡寺渡船組合の発足による渡船の近代化」の解説
明治に入ってからも渡船の運航は地元住民によって継続されており、1874年(明治7年)当時において船は5艘、船人足は合計9人であった。当時の渡船の利用者は一ヶ月に平均9,060人であったという。しかし、渡船によってではなく架橋によって直接陸路で射水川両岸を連絡すべきであるという声が高まり、射水郡矢田村の寺畑善五郎は1882年(明治15年)に石川県庁へ賃取橋の架設を願い出で、翌1883年(明治16年)1月にこれを竣成し実現させた。この橋は寺畑橋と呼ばれ、附近住民に喜ばれたが、出水毎に損傷して橋賃を以てその維持費をまかなうことが難しかった。よって富山県は私設の橋を廃して、1898年(明治31年)2月に延長190間、幅員14尺の木橋を建設し、これを伏木橋と命名した。その後、射水川の改修工事のためにこの橋は撤去され、1911年(明治44年)4月に再び小矢部川に伏木橋が架橋された。 架橋の影響によって渡船の利用者は減少し、1886年(明治19年)における一ヶ月の平均利用者数は4,050人と架橋以前に比して半減した。また、渡守には失業者や窮民が雇い入れられていたが、容姿や服装によって旅客に不快の念を与える者がおり、これを口実に悪評を吹聴して、営利を目的とする渡船事業を出願する者も現れるようになった。このような状況に鑑み、六渡寺の住民は笹谷彦八、紅谷長一郎及び三埜彦四郎を発起人として1911年(明治44年)5月に六渡寺渡船組合を組織し、両岸に洋式建築の待合所を建設し、発動機船の「鹿子浦丸」を同年9月1日に就航させるなど、渡船の近代化に努めることとなった。この「鹿子浦丸」の老朽化により、同組合は1928年(昭和3年)3月に佐賀造船所へ約4千数百円を以て造船を依頼し、同年8月より新たな鹿子浦丸を就航させた。渡船は営利を主たる目的とせず、官公吏、学生、貧民等には無料乗船を許可し、伏木港に出入する汽船に配慮して運航された。 架橋がなされても渡船の利用者が多かった理由は、伏木橋や城光寺橋が河口よりやや上流にあるに拘らず、小矢部川両端における人口密集地域は河口近辺であって、橋まで行くと非常な遠回りになるからであった。渡船の経営に重大な影響を与えた伏木橋は、1938年(昭和13年)に大規模な修繕が行われたが、戦時中に老朽化のため撤去され、陸路によって両岸を連絡するにはより上流の城光寺橋を利用せねばならないようになり、渡船の重要性は増大することとなった。
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