公海自由の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 19:54 UTC 版)
その後諸国は『自由海論』で説かれた理論を大筋で採用する方向へと向かっていく。それは、公海を領有するのに必要な費用に比べ、領有した場合に得られる見返りの少なさからグロティウスの結論が支持されていったためであるといわれる。例えばザミュエル・フォン・プーフェンドルフは、海の占有自体は陸地から管理したり軍艦による監視などで不可能ではない(グロティウスの自然的理由の否定)とはしたものの、実際にはこうした管理を行うのは非常に困難でそれに報いるだけの収益も期待できないとしたのである。しかし同時にプーフェンドルフは、海の使用法の中には確かに航行のような他人に害を与えない活動もあるが、漁業のように資源が無尽蔵ではないものや、海岸に近接した外国軍艦の航行のように沿岸住民に脅威を与えるような使用法もある(グロティウスの道徳的理由の否定)とし、そのため沿岸の住民が自国沿岸の海を自国の海とすることには正当な理由があると説き、逆に沿岸に近接する海を超えて大洋の独占を主張し他国の平和的な航行までを禁じることは許されないとした。つまりプーフェンドルフは沿岸海域と大洋とを区別して論じたのである。「海洋論争」の時代には沿岸からの距離によって区分することなく海洋全般について論じられたが、こうしてこの時代には沿岸から一定の幅の「狭い領海」とその外側の「広い公海」を認めるという、領有できる海とできない海とを分ける考え方が広まっていった。こうした海をふたつに分ける考え方についてグロティウス自身も、1637年の在ハーグスウェーデン使節カメラリウス宛の書簡の中で、海のどの範囲までが各人に属するのかが重要であることを述べている。この書簡の一節を根拠にグロティウスが後の領海制度と同様の、沿岸から一定幅の海域の領有について認めたといいうるかは論者によって意見が分かれるところである。しかしこの書簡から、グロティウス自身も『自由海論』の中で述べたのと全く同じ海洋の自由の思想をその後も抱き続けたわけではないといえる。実際に、グロティウスが後に著わした『戦争と平和の法』第2巻第3章では海の先占について論じているが、そこでは湾や海峡のような陸地に囲まれている海を沿岸国が領有することは自然法に反しないとしている。その後18世紀中ごろには海を領海と公海との二つの部分に分け、公海ではすべての国が領有が禁止され、すべての国による使用が認められるという考え方が学説上確立し、19世紀はじめまでにこうした考えは当時の国際社会から受け入れられ慣習国際法として成立したのである。
※この「公海自由の確立」の解説は、「自由海論」の解説の一部です。
「公海自由の確立」を含む「自由海論」の記事については、「自由海論」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から公海自由の確立を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から公海自由の確立 を検索
- 公海自由の確立のページへのリンク