先発便引き返しと可動橋停電で出航の機会を逸す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:44 UTC 版)
「洞爺丸」の記事における「先発便引き返しと可動橋停電で出航の機会を逸す」の解説
1954年(昭和29年)夏、戦後の全国巡幸の仕上げとして北海道を訪れた昭和天皇のお召し船となってからわずか1ヵ月余り後の9月26日、洞爺丸は朝の6時30分、3便として青森第1岸壁を出航し、11時05分、函館第1岸壁に5分遅れで到着した。そのまま停泊し、折り返し4便として14時40分出航予定であった。この停泊中の11時30分、函館海洋気象台から台風接近による暴風警報が発令された。洞爺丸入港と入れ替わるように函館有川第3岸壁を10時55分、62便(貨物便)として出航した車両渡船渡島丸(初代)は、函館山を交わし、海峡に出たとたん強い東風を受け、激しい横揺れに見舞われ、12時40分頃には船長自ら、僚船に向け「難航中」の無線電話をするほどであった。函館有川第4岸壁を7分早発の12時38分出航した54便(貨物便)デッキハウス船 第六青函丸は、この無線電話を聞き欠航を決断、港口を出たところで引き返し、防波堤内に錨泊した。洞爺丸の先便となる函館第2岸壁13時20分発、1202便(客貨便)デッキハウス船第十一青函丸も出航後、渡島丸から打電された気象情報を受け、13時53分、前途航行困難と判断し、穴澗岬沖から引き返し、14時48分函館第2岸壁へ着岸した。 この1202便では、占領時代から、札幌発東京行の進駐軍専用列車1202列車の1等寝台車と荷物車の航送を行っていたが、1951年(昭和26年)5月9日の津軽海峡への浮流機雷流入以来、寝台車航送は中止されていた。この1202列車を含む進駐軍専用列車はサンフランシスコ講和条約が発効した1952年(昭和27年)4月28日に先立つ4月1日から、特殊列車と呼称変更され、日本人の乗車も許されるようになっていた。このとき寝台車航送も再開され、この日も1等寝台車マイネフ38 5と荷物車マニ32 16を積載していた。 当時、W型やH型のデッキハウス船や車両渡船より、洞爺丸型車載客船の方が堪航性能に優れ、前者が出航見合わせでも、後者は運航されることがあり、この時もそのようなケースであった。第1岸壁の洞爺丸は、戻ってきた第十一青函丸から、アメリカ軍関係者57名と日本人119名の乗客を移乗させた後、15時頃出航のため乗船タラップを上げたが、同船からの荷物車積込中とのことで、すぐには出航できなかった。しかし、これ以上出航が遅れると、台風が来るまでに陸奥湾内へ逃げ込めなくなるため、これ以上の車両積込を拒否し、15時10分に可動橋を上げようとした。しかし、ちょうどその時停電中で可動橋は上がらず、出航の機会を逸し、そのまま“テケミ(天候険悪出航見合わせ)”となった。停電はわずか2分間であったが、出航見合わせの決定は取り消されず、その後、引き続き寝台車の積込みが行われた。この頃、函館港内では雨まじりの20mの突風が吹いていた。
※この「先発便引き返しと可動橋停電で出航の機会を逸す」の解説は、「洞爺丸」の解説の一部です。
「先発便引き返しと可動橋停電で出航の機会を逸す」を含む「洞爺丸」の記事については、「洞爺丸」の概要を参照ください。
- 先発便引き返しと可動橋停電で出航の機会を逸すのページへのリンク