先収会社から三井物産への継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:57 UTC 版)
「先収会社」の記事における「先収会社から三井物産への継承」の解説
明治9年5月1日、井上、三野村利左衛門、益田の三者で話し合いからの協議に基づいて、明治9年6月13日に井上邸において三野村、益田、木村正幹の間で「先収会社ト当社トノ約定併益田孝対談書併約定書共調印」が行われ三井物産会社が実質的に発足する。三井物産の名目上の社主である三井養之助・三井武之助と引き継がれる先収会社側の益田・木村の間で先収会社の引き継ぎを定めた「三井物産会社三井養之助・三井武之助ト先収会社益田孝・木村正幹トノ間に取結ヒタル約定書」で引き継ぎの方法を定めている。 先収会社の陸軍省への絨毛・毛布扱いの残務10万円あまりを引き継ぎ、先収会社の銅購入代金9500円を三井物産が肩代わりし、銀座4丁目の先収会社本社社屋など不動産を9478円で引き取った。この結果先収会社は最終的に15万円あまりの純益を計上することが出来た。 三井物産株式会社による第二次世界大戦以前の分の社史である「三井物産小史」では開業時の使用人は16名としている。これに経営側の益田と木村を加えても18人、うち14人は先収会社からの人員である。後に三井組国産方と三越滞貨取り立て方51人が三井物産に合流し、社員数は一気に増加するのである(それでも幹部は旧先収会社出身者が多い)。 尚、三井物産会社は最初は三井本体(三井銀行)からは切り離されていた。当初の三井物産は利益を上げられるかは不透明であったため、万が一三井物産が事業に失敗しても三井本体に大きな影響が出ないように無資本会社として発足し、運転資金は出資ではなく三井銀行の貸金で賄った(三井本体に貸金以上の損失が発生しないようにである)。三井広報委員会でも「三井物産の社章に「丸に井桁三」の丸がないことからも、三井家が当初直系会社と見ていなかったことがわかる」としている。これは逆に三井銀行が万が一破綻した時に(三井と並ぶ大豪商小野組が明治7年に破たんしたように)、三井一族の生計を三井物産で担えるようにする危険分散の意味もあった。 しかしながらこれらの心配は杞憂に終わり、三井銀行も三井物産も順調な業績をあげ、これに三井鉱山を加えた3社が三井財閥の中核を担っていくのである。
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