偽書・偽文書ではないが、後世に改竄されたとする説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 04:20 UTC 版)
「直江状」の記事における「偽書・偽文書ではないが、後世に改竄されたとする説」の解説
1998年に宮本義己がこれに具体的な根拠を与えた。一つには文言の問題がある。「可被尊意安候」は「可被御心安候」、「可申宣候」は「可申入候」とあるべきとし、ほかにも同格以上の相手に「下着」とか「多幸々々」のような体言止めは用いず「下着候」とするのが自然とした。「尊書」とか「拝見」という用字も疑問視されるとし、「侍者奏達恐惶敬白」も通例に馴染まない特異なものとした。 また、のちに石田三成の挙兵に加担する大谷吉継・増田長盛との関係がこの時点から強調される点も不自然と指摘をした。「これほど的確に当時の政情を物語る文書も珍しい」としながらも、「偽文書ではないが、後世の改ざんかねつ造」との見方を主張している。宮本は2008年に発表された論文で、以下の点についても疑問点を指摘している。使者の伊奈昭綱と河村長門は4月10日に伏見を出発したにもかかわらず、直江状には4月13日に使者が会津に到着したと書かれており、当時の交通事情で3日間での移動は物理的に不可能とする。承兌の書状だけが別の使者によって先に届けられた可能性については、承兌の書状に「使者の口上に申し含め候」とあることから使者と書状は一体でなければならないとする。また増右・大形少という敬称なしの表現も豊臣政権の重責を担う二人であることに配慮したなら、陪臣である兼続は増田右衛門尉殿・大谷刑部少輔殿と記すのが身分制社会の礼儀であり、実際、慶長3年2月10日付けの兼続書状には治部少輔殿と敬称が使われており、これとの比較においても不自然極まりないとする。
※この「偽書・偽文書ではないが、後世に改竄されたとする説」の解説は、「直江状」の解説の一部です。
「偽書・偽文書ではないが、後世に改竄されたとする説」を含む「直江状」の記事については、「直江状」の概要を参照ください。
- 偽書・偽文書ではないが、後世に改竄されたとする説のページへのリンク