俳優としての活動・戦前
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1927年、日活大将軍撮影所に大部屋俳優として入る。しばらく、端役での出演が続いたが、1929年、渡辺邦男監督の『竜巻長屋』に大役をもらう。以後、渡辺監督に喜劇俳優として重用される。 1931年、東京に戻り、曾我廼家五九郎一座に入り、清川虹子らと活動するが、1934年、大都映画に入り、主役級として活躍。極東映画を経て、1937年、日活で親しかった永田雅一が所長を務める新興キネマ京都撮影所に入社し、忍術映画などで活躍する。 1939年、新興キネマ演芸部があきれたぼういずなどの吉本興業の人気タレントを大量に引き抜いたときも暗躍する。ところが、引き抜きの工作に奔走する際、伴は狙う相手の名前を書き並べたメモ帳を円タクの中に置き忘れてしまうという大失態を犯し、ことの重大さに自殺まで考えたという。しかし、伴が降りた後、その円タクを拾ったのが歌手の灰田勝彦で、灰田は拾ったメモ帳を何も言わずに伴に送り届け、事無きを得て以来、伴は灰田に頭が上がらなかったという。 1940年、「化け猫女優」こと鈴木澄子らとハワイ、サンフランシスコ巡業を行い、帰国後、秋田實の応援で小夜福子らと劇団を結成するがほどなく解散。小さな軽演劇の一座の座長として終戦を迎える。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ただし、徴兵の召集令状は受け取っていたが、徴兵検査にはきれいに化粧、女装で出かけていき、その格好を見た検査係官が憤慨、検査場から追い出され、さらに検査直前には醤油を大量に(一升瓶1本分)飲み、「肝臓病」を装って徴兵を逃れている。[要出典]
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