俳優として、文筆家として
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「エゴン・フリーデル」の記事における「俳優として、文筆家として」の解説
1916年には、彼は公式にフリーデル〈Friedell 〉に名前を変えた。同年、かれは『ユダの悲劇』を公表している。1924年、タブロイド紙『シュトゥンデ(ドイツ語版)』の批評家として活動中、風刺の意見を述べたために「反逆者」として解雇された。 1919年から1924年にかけて、フリーデルは『ノイエス・ウィンナ』誌など様々な出版社の編集者・ジャーナリストとして、また、劇評家として活動した。さらに、ウィーンで演劇指導や劇場管理にあたったほか、ベルリンではドイツ劇場(ドイツ語版)、ウィーンではブルク劇場の管理者となったラインハルトの俳優として活躍した。 フリーデルの劇評や文学評論は『シャウビューネ』『ファッケル』『ノイエン・ウィンナ』誌など雑誌や新聞のなかで公表され続けた。1927年以降、健康問題により舞台に立てなくなるが、そののちもウィーンでフリーのエッセイスト、編集者および翻訳家としても活動した。フリーデルが翻訳した著作には、ラルフ・ワルド・エマーソン、フリードリヒ・ヘッベル、ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク、トーマス・カーライル、ハンス・クリスチャン・アンデルセン、ヨハン・ネストロイ(英語版)、およびトーマス・マコーリーの作品があった。 フリーデルはまた、サイエンスフィクションのような小説も書いている。種村季弘は自身のエッセイ「Haresuはまた来る」のなかで、フリーデルがある評論の中でノルウェーの作家クヌート・ハムスンの名前を挙げたところ、たまたま "Hamsun" が "Haresu" と誤植され、日本人のような名前になったために、面白がったフリーデルが、架空の日本人劇作家レンノスケ・ハレス(Rennosuke Haresu)の作品紹介をでっちあげたというエピソードを紹介している。
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