俳優としての活動・戦後
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戦後は清川虹子、笠置シヅ子らと浅草で活動し、美空ひばりの売出しを図るが失敗。 1951年頃から当時同棲中の清川虹子の仲介により新東宝の斎藤寅次郎監督の一家に入って、本格的に映画に復帰する。1951年、斎藤寅次郎監督、高田浩吉主演の『吃七捕物帖・一番手柄』に出演した折、「アジャジャーにしてパーでございます」が大ウケし、それを短くした「アジャパー」が大流行。 1953年には、主役映画『アジャパー天国』が斎藤寅次郎監督で作られるにいたり、「バンジュン」の愛称で主演映画が次々と封切られる売れっ子スターとなる。 1955年からは松竹で、花菱アチャコと共演の『二等兵物語』シリーズ、1958年からは森繁久彌、フランキー堺と共演の『駅前シリーズ』が大ヒットする。 伴は珍演怪演をする珍優とも言われ、喜劇俳優として活躍する一方、1964年、内田吐夢監督、水上勉原作の『飢餓海峡』の老刑事の演技で毎日映画コンクール男優助演賞を受賞するなど、シリアスな演技にも独特な味わいを見せた。同映画に出演した際には監督の内田から徹底的にしごかれ、自信を喪失してしまい、落ち込んだ表情になりがちだった。しかし、実のところそれが内田の狙いであった。結果的にも、伴はいわゆる「枯れた演技」を成し遂げることになった。 浅草サンバカーニバルを発案したり、募金運動のあゆみの箱の提唱者でもある。関西出身ではないのに「関西喜劇人協会」の会長をつとめたり、若き時代の渥美清や生田悦子をイビリ倒していた。また稲川会の稲川聖城の庇護を受けており、雑誌記者が稲川の自宅を訪ねた際に遊びに来ている伴淳三郎の姿を幾度も目撃している 1978年、紫綬褒章を受章。1981年10月26日、伴は食道静脈瘤破裂により73歳で死去した。枕元には伴のかつての妻の清川がおり、伴を看病し喪主も清川が務めた。伴の遺作は死去後の11月3日から放送が開始された連続テレビドラマ『ひまわりの歌』であった。
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