作戦部及び情報部の責任者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 19:26 UTC 版)
「ジェームズ・S・ブラウン」の記事における「作戦部及び情報部の責任者として」の解説
戦後、正式に中佐となったブラウンは、大軍縮を進めるカナダ陸軍において、古参将校の一人と数えられるようになっていた。 1920年、彼はオタワにおいて作戦・情報部長(Director of Military Operations and Intelligence)に任命される。ここで、彼は様々な開戦の可能性を想定しシナリオを設定する予備戦争計画の立案に携わった。シナリオのうちの1つは、アメリカ合衆国と大英帝国が開戦する可能性を示唆しており、防衛計画1号はこのシナリオに基づいていた。この計画の主戦略はわずかにアメリカ領土を占領して時間を稼ぐというものである。各都市の占領を行うべく国境を越えたカナダ軍部隊は段階的に撤退することとされていた。カナダでは大英帝国が北米防衛の為に派兵を行うとすれば、少しばかりの時間が必要になると仮定していたのである。この為、対米戦争に臨む場合、カナダ軍は英本国軍の到着までに何としても時間を稼がねばならなかった。 防衛計画1号は、ブラウンが1913年に設計した予備戦争計画に酷似している。1928年、カナダ軍参謀総長アンドリュー・マクノートン(英語版)大将は防衛計画1号を放棄し、ほとんどの記録が共に破棄された。1960年代初頭にその存在が明るみに出ると、防衛計画1号とブラウンは嘲笑の的となった。 ただし、防衛計画1号を評価する場合、作戦部員は些細な可能性も含め考えうる全ての可能性を考慮する事を任務としていた点、予備戦争計画の立案そのものが将校たちの訓練を兼ねていた点を考慮しなければならない。また防衛計画1号が立案された当時には、ブラウンを含む作戦部員だけではなく、より多くの軍人が政府への働きかけを行った。この計画の立案によって、軍予算が拡大される可能性があった為である。しかし、1920年代初頭までにカナダの政治情勢は、いかなる計画の下に越境攻撃を行うにしても成功を期待できないほどにカナダ軍の力を削いでしまった。 ブラウンは強いカナダと大英帝国の支持者として、またアメリカを不審に思う将校の一人として、まったく真剣に防衛計画1号を立案した。さらにブラウンと数人の部下は民間人に変装しニューヨーク州及びバーモント州を訪れており、この点は計画の公表後に外交上の問題となった。カナダの計画放棄の2年後、アメリカはカナダ侵攻を想定したレッド計画を立案した。
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