住民撤退後
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住民が耕作していた畑(53.6ha)については、村が法定小作料の11倍で買い取り学校営繕林とし、その他原野68.4haは村に無償で寄付された。
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住民撤退後
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「神路信号場」も参照 住民撤退と前後して、中川町(1964年〔昭和39年〕町政施行)では酪農が盛んとなりはじめ、育成牛を町外に放牧に出すケースが見られ始めたことから、町では1965年(昭和40年)以降、未利用地や荒廃地を利用した町営牧場を設置することとなり、左岸側のホロモイも町営牧場として利用されることとなった。これにより、1968年(昭和43年)年5月15日に32.3haの放牧地が着工され、翌1969年(昭和44年)10月20日に竣工、1970年(昭和45年)から全面供用されている。しかし、神路を含めた町営牧場は2017年(平成29年)度から休止となっている。 一方の右岸側は佐久農業協同組合の所有地となり農地は植林され、『北海道 駅名の起源』 (1973)では「駅周辺には人家が一軒もないところ」と紹介される状況にあった。 また、『中川町史』 (1975)に当時の様子について以下のように記されている。 現在は、官舎もなく駅だけが残り、駅員は音威子府から通勤しています。それは列車の時間帯による待ち合せなどがあるからで、川向いの国道を走る自動車の姿を眺めるとき、わびしさが感じられます。 — 『中川町史』 (1975, p. 473) こうして駅としての使命を終えた神路駅は、1977年(昭和52年)5月25日に列車交換を行うためとして存在する信号場となった。その後も仮乗降場として旅客扱いは行われていたが、1985年(昭和60年)3月14日に信号場としても廃止された。
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