伏見人形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 07:26 UTC 版)
京都・深草の伏見稲荷大社周辺で焼かれる土人形。江戸時代後期に50~60あった窯元は一カ所に減ったが、現代でも製作されている。 伏見では粘土を産し、古くから土師器が焼かれていた。稲荷山の土に物を利する霊験があるとされ、乞うて持ち帰る風習があり、平安時代には周辺の住民がその土を丸めて粒に作り店に出して売るようになった。これを粒粒(つぼつぼ)と言った。何時の頃からか、中を空にした盆の様にした物を田豊(でんぽう)と称し、次第に器皿の形のものが作られるようになった。江戸時代に世の中が安定して京を経由する人の往来や伏見稲荷参詣が盛んになると、このほかに土鈴(どれい)をはじめ、牛・馬・鳥をかたどった土産物が焼かれるようになり、子供の玩具として喜ばれた。さらに、これらの土産物は稲荷神の使いとされる狐を中心とする動物や、金太郎など人物と様々に精巧な人形となって世に珍重されるようになった。深草の西部に瓦焼きがあるが、江戸時代に入り経済生活の安定や稲荷社信仰の発達から、稲荷社参詣の土産品の量産が必要とされ、瓦焼きの手法である“型”の使用が始まった。廃業した窯元が使っていた型が2000種程度、伏見人形づくりを続ける「丹嘉」に保管されている。 伏見人形は別名「稲荷人形」「深草人形」「伏見焼」「深草焼」「稲荷焼」とも呼ばれる。江戸時代、京都を経由する旅人や商人、西国大名の参勤交代行列により伏見人形は日本各地に伝わり、それぞれの土地の土人形・郷土玩具の原型となった。 伏見稲荷の南に当り良土を産する深草の地で、土師器の流れを伝え、建保2年(1214年)の『東北院職人歌合』にも詠まれたように“かわらけ”が造られていた。室町時代に入るとともに、それに加えて火鉢、小壷などの日用品や茶器なども併せ作られるようになった。
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