伏木港工業地帯への供給
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:26 UTC 版)
「日本海電気」の記事における「伏木港工業地帯への供給」の解説
第一次世界大戦を背景とする大戦景気が訪れると、富山電気では矢継ぎ早に発電力増強策を講じた。最初のものは大久保発電所の出力を400キロワットへと引き上げる増強工事で、1917年(大正6年)には完成した。次いで翌1918年(大正7年)4月に早月第一発電所が運転を開始する。出力は1,024キロワットで、早月川より取水する発電所である。続いて1919年(大正8年)6月神通川にて出力7,110キロワット(11月以降は9,480キロワット)の庵谷第二発電所が完成し、早月川にも同年12月出力1,400キロワットの早月第二発電所が完成している。増設の結果、発電力は水力発電所5か所計1万4,442キロワットに達した。また開発資金調達のため資本金が1917年に300万円へと増額された。 こうした富山電気の積極的な水力開発は、多量の電力を消費する工場の誘致と連動していた。代表的なものは新湊町(現・射水市)にある日本鋼管電気製鉄所である。社長の金岡又左エ門と当時常務だった山田昌作が新湊町とともに地元出身の浅野総一郎に働きかけた結果建設されたもので、大戦終結後の1919年9月に操業を開始し、富山電気から供給される安価な電力で電気炉を操業して銑鉄を生産した(後にフェロアロイ生産へ転換)。電力料金は1919年6月の契約時点では1キロワット時あたり6厘5毛であり、一般需要家向け料金に比して10分の1程度という廉価であった。 新湊と小矢部川を挟んで向かい合う伏木町(現・高岡市)でも同じ時期、相次いで工場が建設された。一つは1918年4月に操業を開始したカーバイド製造の北海電化工業である。これはカーバイド工場建設を計画する三井物産出身の実業家吉富璣一に富山電気が働きかけて誘致したもの。1919年にはその吉富が設立に関与した北海工業の製紙工場と北海曹達のソーダ工場も伏木町で操業を開始する。加えて関西の実業家により設立された板紙製造の伏木製紙も出現した。 これら1918年から翌年にかけて相次いで出現した伏木・新湊両町すなわち伏木港周辺地域の4工場はいずれも富山電気の需要家であり、1919年下期(11月)の時点では日本鋼管に1,197キロワット、北海工業に345キロワット、伏木板紙に300キロワット、北海曹達に255キロワットの電力をそれぞれ供給していた。4工場のうち日本鋼管との契約電力は3,730キロワット(5,000馬力)であり、契約では1919年9月から契約全量を送電することになっていたが、一般需要の拡大や庵谷第二発電所の工期延長から供給余力に乏しく、実際には同年12月にずれ込んだ。富山電気では大戦中の1917年3月に化学工業事業の兼営認可を得て堀川村にて同年6月から塩酸カリを生産していたが、想定を超えた電力需要拡大の拡大に伴って操業できなくなり、自社工場の廃止を余儀なくされた。 大戦期、富山電気の電灯数は1917年に5万灯を超え、1920年(大正9年)には8万灯に達していた。また工場地帯への供給以外にも、氷見郡氷見町(現・氷見市)の電力会社氷見電気や県西部へ配電する石動電気への電力供給が1918年4月に開始された。
※この「伏木港工業地帯への供給」の解説は、「日本海電気」の解説の一部です。
「伏木港工業地帯への供給」を含む「日本海電気」の記事については、「日本海電気」の概要を参照ください。
- 伏木港工業地帯への供給のページへのリンク