京撮の大リストラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:50 UTC 版)
「岡田茂 (東映)」の記事における「京撮の大リストラ」の解説
1964年、所長として京都撮影所に帰還。「日本で最低の撮影所」ともいわれた東映東京撮影所を『人生劇場 飛車角』の大ヒットなどで甦らせたばかりであったため、鶴田浩二などは「ここまでやって来たのにあんたが行ってしまってどうするんだ」と、一晩中泣いていたという。大川からの最大のミッションが京撮の合理化で、時代劇の退潮とテレビの興隆を肌で感じていた岡田は、時代劇中心の京撮を抜本的に改革しなければ東映の将来はないと考えていた矢先だった。“一つの映画のブームは10年”という考えを持ち、「時代劇はやめだ。撤廃する」と早いうちに決断。2100人いた人員を一気に900人に減らした。それだけの人数を減らすにはテレビ部門を拡充、別会社にしてそこへ押し込むしかないとかなり手荒い事をした。岡田が最初に手をつけたのは切りやすい現場スタッフではなく、草創期の東横映画時代から撮影所を支えてきた歴戦の勇士たちであった。片岡千恵蔵や市川右太衛門、月形龍之介以下、時代劇俳優・監督みんなに辞めてもらう。千恵蔵や右太衛門がまだ絶大なる力を持っている時代で困難を極めた。まずは片岡千恵蔵と市川右太衛門の両〈御大〉。いずれも専属契約解除を通告、千恵蔵は重役待遇で東映に残り、任侠映画やテレビ時代劇の脇役として活躍した。右太衛門は任侠映画への出演を拒否し、取締役としてしばらく在籍した後、相談役に退き東映を退社した。続いて〈天皇〉松田定次はテレビ映画に移管させた。〈法皇〉比佐芳武には引退を勧告した。時代劇の巨匠・松田定次を潰すため、その弟子、平山亨らの作った作品の試写に現れ、ケチョンケチョンに貶した。いたたまれなくなり、その場にいた者は次々に立ち去ったという。当時東映には、三つの労働組合があり、連携して共産党の府会議員とも結託、若手俳優も含めて全員署名捺印するなどして抵抗したが、岡田の色々なパターンによる巧妙な脅し、組合潰しで旗を巻いた。切られた側の松田定次や東千代之介などからは「岡田だけは許せない」などと批判されるが、今日東映が生き残れたのは岡田の功績とする見方もある。時代劇は家族視聴が主体だった当時のテレビ視聴形態にマッチしていたこともあり、重要なコンテンツと目をつけて、任侠路線に馴染めず余剰人員となっていた時代劇のプロフェッショナルたちをテレビに送り込むため、東映京都テレビプロダクションを設立してここへ移管させた。大川橋蔵、河野寿一、佐々木康、結束信二、森田新、村松道平、松尾正武ら。幸い、テレビは時代劇を作りたくてしょうがないのに作る場所がなく、それで東映の撮影所で時代劇をどんどん撮っていった。また、それまで京都中心部に当てられていた脚本執筆のための旅館を太秦の東映独身寮に移し、旅館代を浮かせた。
※この「京撮の大リストラ」の解説は、「岡田茂 (東映)」の解説の一部です。
「京撮の大リストラ」を含む「岡田茂 (東映)」の記事については、「岡田茂 (東映)」の概要を参照ください。
- 京撮の大リストラのページへのリンク