交易ルート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 04:07 UTC 版)
「クーリュール・デ・ボワ」の記事における「交易ルート」の解説
初期の交易は危険きわまりないものであり、クーリュール・デ・ボワは、地図のない土地にも出かけて取引をしたため、行く先々で死亡する者も数多かった。彼らは春、通常5月に、川や湖の氷が解けると同時に、カヌーに物資やインディアンに与える品物を積み込んで出発した。彼らが取るルートは数種類しかなかった。モントリオールから、ビーバーの沢山いる土地へ直接行けるルートもあった。そのうちの一つが、オタワ川とマッタワ川を経由するものであったが、陸上の連水経路を通らなければならないという欠点があった。しかし、全体的には、イロコイ連邦やイングランドの攻撃からはほどほどに安全なルートであった。他のルートは、ミチリマキナクあるいはグリーンベイまで、セントローレンス川と湖を経由して行くもので、カタラキ(キングストン)、ナイアガラ、そしてデトロイトを通った。これは、ナイアガラの滝周辺での遠回りを除いては、すべて水上を行くものであったが、すべてを通り抜ける上で難があった。距離が長いため、イロコイ連邦の妨害にも度々遭った。セントローレンス川での航行もその当時は危険だった。まだブイや標識塔がないころで、どこに浅瀬があるのかがはっきりせず、イングランドとの絶え間ない戦争の間は、海で拿捕される危険もかなりあった。」 一般的に航行は一月ほど続き、クーリュール・デ・ボワは時に、半日ほど樺皮のカヌーか、または平底船を漕いだ。一部のクーリュール・デ・ボワは、自分の住まいから2000キロほど、あるいはもっと航行することもあった 。5月から8月は、大部分の交易者は入植地を離れていた。この航行のためにカヌーを荷造りするのは、骨の折れる作業であった、クーリュール・デ・ボワの生活と交易には、30以上の物品が必要であると考えられていたからである。彼らは食物や、狩猟の獲物、魚をインディアンと物々交換したが、他にも、ラシャ生地や麻や毛布、弾薬、金属製品(ナイフ、手斧、やかん)、鉄砲、そして時には衣類すらも、交易品としてカヌーの空間の大部分を埋め尽くした。航行中の食物は、目方が軽く、実用的で、腐敗しにくいものだった。バファロー肉から作るペミカンは、インディアンの食物だが、クーリュール・デ・ボワの関心をも惹いた、交易生活の条件を満たす食物だった。このペミカンは生皮の入れ物に保存されており、長い旅の間にも底をつくことはなかった。
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