井上準之助暗殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:36 UTC 版)
池袋正釟郎は静岡県興津に行き、西園寺邸近くの清見寺を拠点にして張り込みを続けたが、西園寺の行動パターンがつかめず、暗殺実行は難しかった。四元は、以前自分の親戚が牧野の弟・大久保利武と会ったことがあったのでその線で牧野と面会できないかを探ったが失敗したため、牧野が自宅から自動車で出てきた時を狙って襲撃することにした。古内は池田の行動を調べ、最終的に、池田が三井銀行に出社したところを狙撃することにし、日本橋で張り込みを始めた。小沼は、井上準之助 (前大蔵大臣、民政党総務委員長) の演説会を回り、暗殺実行の可否を探った。 最も早く暗殺実行に動けたのは小沼で、2月6日早朝権藤空き家に行き、日召から暗殺用の拳銃を受け取ると、大洗に向かい、そこで拳銃の試射を行った。その後で実家に戻り母親に会った後、翌7日の朝、再度上京、8日に井上準之助の演説会に赴いたが、その時の井上の応援演説には本人が現れず、トーキー映画による映写のみだったので暗殺を断念した。翌9日、本郷の日召夫人宅を出た小沼は、夜に井上準之助がすぐ近くの本郷駒本小学校で演説を行うことをポスターで知った。 演説会までの間、ビリヤード場や映画館で時間をつぶした後、夕方、夫人宅に戻って服を着替え、読誦、拳銃の手入れを済ませ、小学校へ出かけた。 自動車に乗って井上準之助が入ってきたので、降りて通用門へ入って行くところを背後に近づいて懐中から短銃を取り出し、井上の腰に拳銃を当て3発発射した。小沼はステッキで殴られ気絶し、気づいた時には歩道に四つん這いにされ群衆から罵倒、リンチを加えられていた。 井上は、濱口雄幸内閣で蔵相を務めていたとき、金解禁とデフレ政策を断行した結果、かえって世界恐慌に巻き込まれて日本経済は大混乱(昭和恐慌)に陥った。また、軍縮のため予算削減を進めて日本海軍に圧力をかけた。そのため、第一の標的とされてしまったのである。小沼はその場で駒込署員に逮捕された。一方、井上準之助は帝大病院に搬送されたが間もなく死亡した。 日召は井上準之助暗殺を9日夜に権藤空き家にやってきた久木田を通じて知った。また、権藤空き家にやって来た四元が潜伏先を変えることを主張、日召は権藤空き家から、渋谷常盤松町の頭山満邸に移ることになった。頭山満邸の中に天行会の道場があり、そこに日召の友人の本間憲一郎 (五・一五事件の民間側実行犯の1人) が常駐していたことから本間と相談して、道場の2階に潜伏することにした。 権藤空き家に隠し持っていた拳銃は、たまたまやってきた大庭に手渡して海軍の濱大尉に預けるよう日召が指示した。そしてこの後、頭山満邸に移った。また、四元と森は痕跡を消すため、権藤空き家の部屋を徹底的に掃除した。その夜、権藤空き家に刑事がやってきて二人は警視庁で事情聴取されたが、小沼との関係を全面否定、夜のうちに釈放された。
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