事件当事者たちのその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 03:14 UTC 版)
「アルヴェス・レイス」の記事における「事件当事者たちのその後」の解説
レイスは裁判中も雄弁であり、従来の政府の依頼を受けて行動したとの主張を繰り返した。そのために裁判所は実際に政府高官の関与を疑い、調査のために裁判は五年延期された。しかし裁判が再開された1930年に有罪判決を受けて20年の刑(禁錮8年、追放12年)に服した。服役期間中、アルヴェス・レイスはプロテスタントに改宗し、また周囲の囚人をも改宗させるなど才能を見せた。 レイスは1945年に釈放された後に再び貿易会社を設立したがこれは失敗し、2年で解散している。その後、1955年に亡くなるが、資産は葬儀代すら残されておらず、800エスクード(32ドル)の棺桶も買えなかったため無縁墓地に葬られた。レイスが死亡した際、「タイムズ」では次のような論評が掲載された。「たとえその動機が批難さるべき性質のものであったにもせよ、この悪漢はポルトガルに、ケインズ理論の最良の諸法則に適合する多大の利益をもたらしたのである」。 ホセ・バンデイラは15年の刑に服し、釈放後はナイトクラブを経営して1960年にリスボンで亡くなった。 アドルフ・ヘニーはドイツに逃亡し、偽名を捨ててハンス・デーリングという本名で投資業を再開した。しかし投資に失敗して困窮すると、信用して預けた財産を取り返すこともできなくなり、貧困の中で1936年8月29日、ベルリンで死亡した。 カレル・マランはオランダで逮捕され、裁判で禁錮11ヶ月の判決を受けた。マランは国外退去を選び、フランスで小さな電気メーカーを買収して成長させると模範的なフランス市民となり、家族に家業を譲った後に1960年カンヌの別荘で死去した。 ポルトガル銀行はウォーターロー商会に対して損害賠償のための訴訟を起こし、法制史上最も複雑と呼ばれる裁判が繰り広げられたが、ロンドンの最高裁判所は1932年にウォーターロー商会の主張がほぼ受けいられた判決を下した。 ポルトガル銀行総裁の封筒と便箋を作成したジョー・エンスヘーデ社は責任を問われることはなかった。なお、2016年に印刷した50ユーロ紙幣を2年間に渡って従業員が持ち出していた事件が報道されている。
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