久田吉之助の技術を盗用して成功した黄色煉瓦焼成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 10:01 UTC 版)
「久田吉之助」の記事における「久田吉之助の技術を盗用して成功した黄色煉瓦焼成」の解説
しかし、移転後半年たっても、帝国ホテル煉瓦製作所の技術師・寺内信一は「黄色い煉瓦」を焼くことができなかった。 1918年2月のある日、久田工場から引き抜いた職工のひとりが牧口に、「寺内さんが煉瓦を焼きあげる寸前に、久田が、腹心の窯焼きに命じて窯の出入り口を解放させたり破壊させたりして空気を入れると、黄色い煉瓦が焼けたのを見ました。それをやってみては如何ですか」と久田吉之助のやり方を告げた。久田は、窯に酸素を入れて完全燃焼させる「酸化焼成」の技法で、「黄色い煉瓦」を焼いていたのである。久田が焼ける寸前に窯の入り口を破壊することを、寺内と牧口は、暴力的な嫌がらせとしてしか認識していなかったが、久田は、窯の破壊によって酸化焼成を起こさせ、自分には寺内にはない「黄色い煉瓦」焼成の技術があることを示していたのだ。 久田工場引き上げ騒動の時に久田工場から持ってきていた煉瓦のなかに「黄色い煉瓦」がまざっていることを確認した牧口は、久田の手法を試すよう寺内に進言する。しかし寺内はこれを受け入れず、突然辞任を表明する。 万策尽きた牧口は、「黄色い煉瓦」の焼成は不可能と林支配人に報告するが、慌てて常滑に視察にきた林は、牧口が久田工場からとりあげてきた黄色い煉瓦を見て感激、「君こんなに立派な物もあるではないか、一つ頑張ってみてはくれぬか」と言い、牧口は「その方法についてはいささか心当たりがございます。寺内さんには既におすすめしているのですが、どうしてもおやりになりません」。林支配人は「それならば、今度は君の思い通りにやりたまえ」と牧口に指示した。寺内は、技術顧問を伊奈初之丞、経理顧問を澤田忠吉に託して、故郷の有田へと去っていった。 1918年3月、牧口は、窯焼きの親方・水野を呼んで、久田吉之助がやっていた酸化焼成を試すことを頼んだ。しかし水野は「そんなことをしたら窯が壊れる」と顔色を変え、承諾しなかった。重ねて説得すると、水野は「熱田の秋葉山別院に参じて火祭りの御祈祷をしてからならば」とようやく応じた。ふたりは盛大な祈祷を行い、安全守りの大きな御札を各窯正面天井の大柱に貼り付けて礼拝し、そののち酸化焼成を行った。久田吉之助の「黄色い煉瓦」焼成方法は、それほどまでに型破りなものだったのである。 久田吉之助は1918年11月、病没。41歳の若さだった。
※この「久田吉之助の技術を盗用して成功した黄色煉瓦焼成」の解説は、「久田吉之助」の解説の一部です。
「久田吉之助の技術を盗用して成功した黄色煉瓦焼成」を含む「久田吉之助」の記事については、「久田吉之助」の概要を参照ください。
- 久田吉之助の技術を盗用して成功した黄色煉瓦焼成のページへのリンク