主碑文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 22:43 UTC 版)
「全米日系米国人記念碑」の記事における「主碑文」の解説
アメリカ合衆国が第二次世界大戦に突入してから73日後の1942年2月19日、フランクリン・ルーズベルト大統領は、12万人の日系アメリカ人達が、西海岸やハワイにある自宅から立ち退かざるを得ない事態を招く『大統領令9066号』を発令した。彼等は、最低限の手荷物しか手にする事を許されず、自宅・友人・農場・会社を放棄して、人里離れた土地に作られた10ヶ所の強制収容所まで、武装した軍隊によって護送され、有刺鉄線に囲まれる中での生活を余儀なくされた。1946年3月まで収容所に抑留された者もいた。 更に、司法省によって4,500人が逮捕され、ニューメキシコ州サンタフェなどの収容所に収容された。テキサス州クリスタルシティ(英語版)の家族抑留所においても、2,500人が収容された。 召集に応じる形で、若い日系人が兵役に就き、戦前からの兵士達も馳せ参じた。ヨーロッパで戦った第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団は、その活動期間と規模に比して、アメリカ合衆国軍事史上で最も多くの勲章を受けた部隊となった。MISの隊員達は、2ヶ国語話者としての能力を活かして、数多くの人命を救い、太平洋戦争の終結を早めた。第1399建設工兵大隊は、勝利に不可欠なインフラストラクチャーの強化に貢献した。 終戦から38年後の1983年、『戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会(英語版)』は、日系人の強制収容を「軍事的な必要性ではなく、人種差別に基づいた不当なもの」と結論付けた。 1988年に、ロナルド・レーガン大統領は過ちを謝罪し、最小限の補償を提供し、全てのアメリカ人の、法の下における平等な正義を求める、という国家の公約を再確認する『市民の自由法』に署名した。
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