丸山への追及とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/23 02:15 UTC 版)
「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」の記事における「丸山への追及とその後」の解説
昭和35年(1960年)、安保闘争で騒然とする日本。政府自民党は5月19日に警官隊を導入して、新安保条約を単独強行採決。6月4日夜、3波にわたるゼネスト。6月10日、ハガチー事件(アイゼンハワー米大統領訪日の打ち合わせで来日したジェイムズ・ハガティ大統領新聞係秘書が安保闘争のデモ隊に包囲され、羽田から米軍ヘリで脱出)。6月15日、警官隊とデモ隊が衝突して1名(樺美智子)が死亡。 社会部のデスクとなっていた矢代に、小野記者(橋本功)が、横田基地の近くで丸山という労務者を見かけたと報告する。その男は、下山事件の後に窃盗で拘置され、寝言で「下山総裁なんてそんな偉い人を殺してない」などと奇妙なことを口走った男だという。矢代と大島は、丸山(隆大介)を執拗に追及し始めた。丸山は、知らぬ存ぜぬを繰り返す。丸山の妻の西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき 」の歌が聞こえてくる。八代は丸山の働くダム工事現場まで訪ねて行く。 昭和38年(1963年)9月、松川事件裁判の最高裁判決で、全員逆転無罪となった。下山事件は時効の前年だ。二人の説得に、ついに丸山は、50万円(当時としてはかなりの高額)と引き換えなら、知っていることを話してもよいと告げる。命の安全のために生まれたばかりの子どもと妻と逃げ回らなければならないから必要だというのだ。矢代は、前年に刑事を辞めて病院の事務長になっていた大島とともに、丸山から事情を訊く。 下山総裁が誘拐されたあの日、丸山は李も話していたボスの「嗄(しゃがれ)声の男」(草薙幸二郎)に命じられて、生暖かい死体あるいは仮死状態の男の体を、仲間とともに事件現場の線路上に運んだのだという。下山総裁とは知らずに男の体を線路上に運んだ丸山は、腰を抜かして線路脇にしゃがんだまま、列車に轢断されるのを驚愕しながら見つめていたのだ。細かい事実が違うのでもっと訊きたいことがあるとの矢代らの追及に、「命が危ないのにそんなやばい作り話をするか」と激怒し、丸山は50万円を受け取り、慌てて姿を消した。 昭和39年(1964年)、日本は東京オリンピックに沸いた。開会式のテレビを見て盛り上がる社会部の矢代の元に、ある駅から電話があった。驚いて駅に駆けつける矢代。あの丸山が駅のホームから線路に転落して電車に轢かれ、八代の着く直前に息絶えていた。彼の妻は、売店に行っていたので、転落を見ておらず、ほかに確かな目撃者はいないという。何者かに突き落とされて、口を封じられたのか。死ぬ間際に、丸山は矢代に何かを告白したくて面会しようとしたのか。矢代が丸山の手を握り締めて何かを大声で叫び続けたが、その声は通過する列車の轟音にかき消された。この年、下山事件は公訴時効となった。(終)
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