中学3年から高校2年まで
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「薬師丸ひろ子」の記事における「中学3年から高校2年まで」の解説
1979年、中学3年生だった薬師丸は高校受験のため女優業は休止。1979年夏の角川文庫「時間がないんだ青春は」キャンペーンのポスターやチラシの仕事だけはしていた。雑誌『バラエティ』に薬師丸のグラビアが掲載されるたびに読者の反響が大きくなっていったので、初写真集『薬師丸ひろ子フォトメモワール』を発売する。当時、1800円という高額だったが、発売3日間で1万5000部、最終的には10万部を越えるベストセラーになった。映画出演2作目『戦国自衛隊』(1979年)は若侍役というカメオ出演だったのにもかかわらず、ファンが劇場に押し寄せた。 同年、キティ・フィルム代表多賀英典が薬師丸本人に直接映画『翔んだカップル』(相米慎二監督)への出演交渉を行った。当初、薬師丸は出演を固辞していたが高倉健のアドバイスもあり、最終的には出演を了承した。学校を休む必要のある仕事や歌手デビューを拒否していた薬師丸が、『翔んだカップル』には出演する意欲を見せたので、事務所は東宝に薬師丸を貸し出すことになった。当時、事務所も薬師丸の今後の展望を持っていなかったので、気楽に貸し出したと薬師丸は話している。この映画で第2回ヨコハマ映画祭主演女優賞と第4回日本アカデミー賞話題賞俳優部門を受賞した。 詳細は「翔んだカップル#映画版」を参照 宮本治雄によれば、ドル箱だった山口百恵を結婚引退で失った東宝はポスト百恵として薬師丸の2作品『翔んだカップル』(1980年)・『ねらわれた学園』(1981年)を配給した。 初主演映画『翔んだカップル』は大ヒットとはならなかったが、キティ・フィルムは相米慎二監督&薬師丸主演第二弾として『セーラー服と機関銃』(1981年)を予定していた。角川春樹事務所に薬師丸の出演交渉を行うが、他社映画への出演に難色を示した。しかし、薬師丸が角川春樹を説得し、キティ・フィルムと角川春樹事務所提携作品として映画が製作されることになった。 映画『セーラー服と機関銃』の中で機関銃を乱射するシーンで有名な「カイ・・・カン」のセリフは薬師丸のアドリブであると言われていたが、薬師丸は台本であると断言した。このシーンの撮影で割れたビンの破片が薬師丸の左頬に当たり少し出血する事故が起きるが、そのまま演技を続け映画の本編で使われている。傷は長さ1cm弱で浅かったが、対応した医師は傷痕は残ると宣告する。 『セーラー服と機関銃』の公開2日目(1981年12月20日)、大阪・梅田東映ほかでの舞台挨拶を予定していたが、徹夜組を含めた約8,000人 のファンが上映3館に殺到したため、放水車 を伴う機動隊まで出動し、舞台挨拶も上映も中止となった。その騒動は翌日のスポーツ新聞のみならず、一般新聞の社会面トップ記事にもなった。朝日新聞の1面には「機動隊と機関銃」という見出しの記事が載った。舞台挨拶を見られなかったファンは薬師丸を追って大阪空港へ殺到し、空港もパニックになる。空港を回避し新大阪駅に向かったが、そこにもファンがいて、結局、名古屋までタクシーで移動し東京に戻った。その後、薬師丸が大阪を訪問するには、何年かの間、警察の許可が必要だった。同月25日、「翌年(1982年)は大学受験のために仕事を控える」と休業宣言をする。休業期間は1年半だった。映画評論家の増當竜也によれば、『セーラー服と機関銃』は薬師丸を一躍日本映画界を代表する青春スターにしただけでなく、大作路線からプログラムピクチャー路線に舵を切った角川映画の救世主となった。 詳細は「セーラー服と機関銃 (映画)」を参照
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