相米慎二監督
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相米慎二監督は『翔んだカップル』(1980年)で演技の未熟な薬師丸たちが出来るようになるまで撮影に時間を掛けてくれた。その時間の長さが相米監督の愛情だったと薬師丸は回顧している。監督に気に入られるために、何回も自転車で壁に突っ込むシーンに挑んだ。新人監督の相米が辛い立場なのは薬師丸も理解していて、そんな相米を怖いけれど兄のように慕う部分もあった。 薬師丸は『翔んだカップル』の相米監督との相性が非常に良かったので、次の映画(『ねらわれた学園』)の大林宣彦監督の現場に慣れるのに時間が掛かってしまった。これは「相米病」になっていたためと薬師丸は説明している。 相米監督からは「小芝居をするな」、「手足、足先まで力を入れろ」と言われた。「ゴミ」「クズ」「ガキ」と罵声を浴びることもあった。通称しごき棒と言われるもので叩(たた)かれ突かれることもあったが、それは同時に監督から映画参加資格を貰っているように薬師丸は感じていた。薬師丸は監督を鬼と思うこともなかったし、いざとなったら監督を敵に回して戦う気概もあった。キャメラマンの仙元誠三によれば、相米監督と薬師丸はお互いを理解し合う関係性ができていた。『セーラー服と機関銃』(1981年)がヒットして、普段は感情を表に出さない相米監督が、大入りの新宿の映画館を見て非常に喜んだ。そんな相米の姿を見て薬師丸も嬉しくなった。 薬師丸が相米監督に最後に会ったのは、監督が亡くなる前年(2000年)の12月で、久しぶりに相米組が集まった時だった。 『キネマ旬報』の相米慎二追悼特集(2001年)で、実際には服を着ていても、生身の姿を人前にさらけ出す覚悟がカメラ前に立つには必要であること、演じることの厳しさ、怖さを相米監督から教わったと薬師丸は話している。そして、あの時期があったからこそ、薬師丸は女優を続けられているとも述べている。 松本隆との対談の中で、薬師丸は原点である『セーラー服と機関銃』が相米の死によって「思い出」になってしまうことが悲しいと話した。
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