中国の史書における戦象
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中国の軍隊もかつて戦象を使用し、また戦象に直面した。古代黄河流域の気候は温暖で湿潤であり、大量の中華象と中華サイが生息していた。 商朝の時代、中原人はすでに象の捕獲や調教や使用のための成熟した技術を持っていた。最初は農業に用いていたが、次第に戦争に用いられるようになり、専門の象軍が作られた。『呂氏春秋・古楽篇には「殷人服象,為虐于東夷」との記述があり、殷の紂王の時期の殷軍は東夷を征伐する戦争に戦象を使用し、大きな働きをしたことがわかる。殷が羌人を征伐した戦争にも戦象を使用したとの記載がある。 漢朝以降の気候変動と過度な捕殺により、中原の象は絶滅し、象軍は中原王朝の軍隊から消失し、中原王朝が南方王朝と対決するときの相手となった。445年、南朝宋の振武将軍の宗愨と林邑王范陽邁2世が象浦で会戦した。林邑王の戦象は数限りなかった。宗愨はニセの獅子を制作させて戦象を迎え撃った。敵の戦象は発狂して逃げ帰り、林邑軍は壊滅した。 南北朝時代、隋の文帝の楊堅の父親である楊忠は西梁の討伐に参加したとき、梁軍は鋭い刃を象の鼻にくくりつける作戦を行った。楊忠は敵の二頭の象を射て、錯乱した象は逃げ帰り、魏軍は勝利を得た。 唐朝の時代、東南アジア地区には野象の群れが生息しており、民衆は象を乗り物として使用した。戦場で象を使うことも普通であった。唐朝初期、林邑王は環王と改称し国都を占城とした。中国の史書の記載に拠れば、環王の衛兵は5000人で、戦争の時は戦象に乗ったという。国王は唐太宗に調教済みの象などを献上した。元和初年、唐の安南都護張舟は占城軍を撃破し、この戦いで戦象若干を獲得した。中国史書には占城の象刑が記録されている。 1277年のンガサウジャンの戦いでは元がビルマのバガン朝が擁する戦象と戦っている。 明代に成立した三国志演義において、南蛮のとある国の王がゾウを用いて戦うという描写があり、その戦いが歴史的事実か否かは別にしても、作品成立時には中国の一般民衆にも戦象の存在が知られていたことが分かる。
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