中国の史書における戦象とは? わかりやすく解説

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中国の史書における戦象

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:29 UTC 版)

戦象」の記事における「中国の史書における戦象」の解説

中国軍隊もかつて戦象使用し、また戦象直面した古代黄河流域気候温暖湿潤であり、大量中華象と中華サイ生息していた。 商朝時代中原人はすでに象の捕獲調教使用のための成熟した技術持っていた。最初農業用いていたが、次第戦争用いられるようになり、専門の象軍が作られた。『呂氏春秋古楽篇には「殷人服象,為虐于東夷」との記述があり、殷の紂王時期の殷軍は東夷征伐する戦争戦象使用し大きな働きしたことがわかる。殷が羌人を征伐し戦争にも戦象使用したとの記載がある。 漢朝以降気候変動過度な捕殺により、中原の象は絶滅し、象軍は中原王朝軍隊から消失し中原王朝南方王朝対決するときの相手となった445年南朝宋の振武将軍の宗愨林邑范陽邁2世が象浦で会戦した。林邑王の戦象は数限りなかった。宗愨ニセ獅子制作させて戦象迎え撃った。敵の戦象発狂して逃げ帰り林邑軍は壊滅した南北朝時代、隋の文帝楊堅父親である楊忠西梁討伐参加したとき、軍は鋭い刃を象の鼻くくりつける作戦行った楊忠は敵の二頭の象を射て錯乱した象は逃げ帰り魏軍勝利を得た唐朝時代東南アジア地区には野象の群れ生息しており、民衆は象を乗り物として使用した戦場で象を使うことも普通であった唐朝初期林邑王は環王と改称し国都占城とした。中国史書の記載拠れば、環王の衛兵5000人で、戦争の時は戦象乗ったという。国王唐太宗調教済みの象などを献上した元和初年、唐の安南都護張舟は占城軍を撃破し、この戦いで戦象若干獲得した中国史書には占城の象刑が記録されている。 1277年ンガサウジャンの戦いでは元がビルマバガン朝が擁する戦象戦っている。 明代成立した三国志演義において南蛮のとある国の王がゾウ用いて戦うという描写があり、その戦い歴史的事実か否か別にしても、作品成立時には中国一般民衆にも戦象存在知られていたことが分かる

※この「中国の史書における戦象」の解説は、「戦象」の解説の一部です。
「中国の史書における戦象」を含む「戦象」の記事については、「戦象」の概要を参照ください。

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