与えられる氏姓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 01:29 UTC 版)
臣籍に降下する皇族には、臣下であることを表す氏及び姓(かばね)が与えられる。 源平の氏が与えられるようになる前までは、多様な氏が与えられていた。源氏は嵯峨天皇が、814年(弘仁5年)に自らの皇子3名に皇親賜姓を行い源氏を授けたことに始まる。これは「魏書」の源賀伝に出典するものである。嵯峨天皇は最終的には皇子・皇女32名を臣籍降下させ、源信・源常・源融は左大臣にまで昇り、源潔姫は人臣最初の摂政となった藤原良房の正室となった。一方、平氏は、淳和天皇の時代の825年(天長2年)に桓武天皇第5皇子葛原親王の子女(二世王に相当)に平氏を賜ったことに始まる。これは桓武天皇が築いた平安京にちなんだ氏である。 臣籍降下の概念が明確ではなかった上代においては、第9代の開化天皇以降の皇別の氏族には公(きみ)の姓(かばね)が与えられていた。その後、八色の姓が制定されると、第15代の応神天皇以降の皇別の氏族には真人が与えられるようになる。事情により朝臣又は宿禰の姓(かばね)が与えられることもあった。与えられる氏が源平に固定されると姓(かばね)も朝臣に固定されるようになる。 なお、臣籍降下に際して、王の身位は当然に除かれるとは言え、名は改めないのが通常であるが、葛城王(橘諸兄)から諸兄、以仁王から以光などのように改める事例もある。 明治時代以降の臣籍降下では、生家の宮号と同じ氏を用いる例があった(山階芳麿侯爵・久邇邦久侯爵・伏見博英伯爵)。また、廃絶した又は廃絶する予定の宮家の祭祀を承継するため廃絶した宮家の宮号と同じ氏を用いる例があった(小松輝久侯爵・華頂博信侯爵・東伏見邦英伯爵)。そうではない場合は、宮家に所縁のある地名などを用いることが多かった。 1947年(昭和22年)10月14日の皇籍離脱では、全ての宮家で宮号をそのまま戸籍法上の「氏」としたため、それ以前に降下した山階家・久邇家・伏見家と戸籍法上の氏が重複することとなった。
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