下関賠償金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 00:46 UTC 版)
長州藩との講和談判によって、300万ドルもの巨額の賠償金は幕府に請求されることになった。イギリスはこれを交渉材料にフランス・オランダと共に将軍徳川家茂の滞在する大坂に艦隊を派遣し、幕府に安政五カ国条約の勅許と賠償金の減額と引換に兵庫の早期開港を迫ったが(兵庫開港要求事件)、兵庫は京都の至近であり、朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は300万ドルの賠償金を受け入れた。幕府は150万ドルを支払い、明治維新後に新政府が残額を明治7年(1874年)までに分割で支払った。 明治16年(1883年)2月23日、アメリカのチェスター・A・アーサー大統領は不当に受領した下関賠償金(78万5000ドル87セント)の日本への返還を決裁した。300万ドルの賠償金の分配はアメリカ、フランス、オランダの3ヶ国の船艦が42万ドルを分け、残額258万ドルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、アメリカは合計で78万5000ドルを得ていた。 実際のアメリカの損失は、 アメリカ船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500ドル 長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル 水夫への危険手当2000ドル だった。 なお、ワイオミング号の損害は日本への威圧の為に起った事で日本ではそれ以上の損害が発生しており、連合艦隊への参加は商船タキアン号1艘のみの参加で64万5千ドルを得た事になっていた。結果、アメリカの損害は合計1万ドルに過ぎなかった。この賠償金はアメリカ政府の公認を得たものでなく、日本に対する威圧によって得たいわば不当なものであった。アメリカ国務省は日本から分割金を受領するたびに国庫に納めず国債として保管していた。その実情を明治5年(1872年)、ハミルトン・フィッシュ国務長官が森有礼公使に伝えた事から、日本側では機会をとらえては返還の要請をしていたものである。日本では明治22年(1889年)、返還金の元利金約140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当する事を決定し、明治29年(1896年)5月に完成している。
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