下総結城氏の繁栄とその衰退
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「結城氏」の記事における「下総結城氏の繁栄とその衰退」の解説
結城朝光とその子・朝広の時代、幕府の要職を歴任し、鎌倉幕府の御家人の中心として繁栄期を迎えた。しかし、朝広の子・広綱以降は当主の早世と少年新当主の家督継承(直光を除き基本、数え12歳以下の幼少である)が相次ぎ、衰退することになる。元弘3年(1333年)、当時の当主・結城朝祐は足利高氏(後の尊氏)の上洛軍に加わってそのまま六波羅探題攻撃に参加、建武政権より本領安堵を得た。ところが、庶流である白河結城氏の結城宗広が早くから討幕に参加していたということで、建武元年(1334年)に結城宗広に対して「結城惣領」として一族を統率するようにとする後醍醐天皇の綸旨が下された。実際に惣領に還付されるべき結城一族の跡が宗広に宛がわれ、さらに建武2年(1335年)には北畠顕家によって突如、朝祐の所領であった陸奥国糠部郡七戸が没収されて南部政長に与えられている。こうした経緯から、朝祐は足利氏に接近して足利尊氏と共に建武政権に反旗を翻してその覇業を助け転戦することになる。その結果、朝祐は多々良浜の戦いで戦死し、後を継いだ直朝も関城攻防戦で戦死している。『梅松論』には建武3年(1336年)正月に京都において下総結城氏及び同族の小山氏は敵の南朝方にいる白河結城氏の軍勢と区別するために右袖を割いて冑につけて戦ったという故事が記されている。また、同年12月には北畠顕家・白河結城氏の軍が結城郡に侵攻している。また、結城直朝の戦死のきっかけとなった関城を支配する関氏(藤姓関氏)も下総結城氏の庶子でありながら南朝方についた一族であり、結城一族は南北に分かれて争うことになった。 こうした状況の中で下総結城氏は一貫して足利氏を支持し、結城直朝の弟・直光の代には安房国守護を務めるなど再興を果たしている。また、一時は白河結城氏に渡った惣領の地位も同氏の内紛の影響もあり、宗広没後は再び下総結城氏の下に戻った。
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