下総相馬氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:48 UTC 版)
下総相馬氏(流山相馬氏)は、鎌倉時代後期に内紛によって衰退したものの、室町時代には古河公方に従属して守谷城を本拠地として再興した。だが戦国時代には北条氏に付くかどうかで分裂し、反北条派である庶流の相馬治胤が家督を奪った。治胤は北条氏に降伏後、天正期には小田原征伐で北条氏に属したために改易されたが、子の秀胤は徳川家康に内応したことで治胤旧領の5,000石を与えられた。秀胤は文禄の役に際して肥前国名護屋城で病死し、代わって弟の胤信に3,000石が与えられたが、胤信の跡を継いだ盛胤の時に無嗣断絶となっている。盛胤の死後、相馬氏が名門であることから特別に末弟の政胤が徳川秀忠に召し出され、旗本として相馬郡内1,000石で家名再興が許された。一族には一橋徳川家に出仕した者もある。 相馬永胤を出した彦根相馬氏も、この流山相馬氏の当主である相馬胤広(胤晴の祖父)の血を引き、相馬胤利(胤直(胤広の子、胤貞の弟)の孫)と治胤(妻が胤晴の娘)の娘との間に生まれた子の血統とされる。
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