三河国牛久保城に起源がなく、伊勢国に落ち延びた南朝・楠木氏一族の流れを汲む木俣氏
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「三河国牛久保城に起源がなく、伊勢国に落ち延びた南朝・楠木氏一族の流れを汲む木俣氏」の解説
立命館大学教授太田亮は、その著述の中で、伊勢国木俣氏は、楠木正勝の末裔であり、守勝(守時ではなく)が家康に仕えるとある。楠木正勝は、大楠公(楠木正成)のひ孫(正成の4世・3親等)にあたる。 戦国時代、伊勢国の楠氏が拠った楠城は、北朝応安2年・南朝正平24年(1369年)に諏訪十郎貞信(異に楠十郎貞信)が築城。また三重県四日市市役所が、楠城址に立てた看板によると、「楠城は、もと楠山城と称し、伊勢国司北畠顕泰が、正平24年築城、命じて諏訪十郎貞信に拠らせた(後略)。」とある。 彼は、信濃国諏訪の住人で、伊勢国の国司北畠氏の家臣となり、2代目の貞益は北畠顕家から中島4郷を与えられ、中島氏を称したとする。この諏訪十郎貞信は、楠木正成の異母弟の末裔であるとの伝説がある(出典、伊勢名勝志)。 応永19年(1412年)、楠木正顯の3男正威が、諏訪氏のあとを継ぐかたちで北畠顕泰から伊勢国楠城を与えられ、楠木氏をあらためて楠氏を称した。このかたちとは、国司北畠氏の計らいというが、平和的委譲なのか、下克上(乗っ取り)的な性格なのものかは、わからない。 一説によると、北畠顕泰が危篤になり、遺言があって、楠氏に城主交代となったという。国司北畠氏の先祖である北畠親房・北畠顕家と、楠木正成・楠木正行は、ともに南朝の忠臣として名高く、北畠氏が楠(楠木)氏の名跡を残すことに腐心していた逸話でもある。この楠木正顯は、楠木正成の5世(4親等)に当たる人物で、父は、楠木正勝であったという(楠町誌は、楠木正顯の父である楠木正勝を初代楠城主として紹介している点は、矛盾である。楠町は、現在の三重県四日市市楠地区である)。 楠木正成の祖父を、楠木盛仲とするものと、楠木正俊するものがあり、混乱するが、楠木正成・母の父が橘盛仲である。盛仲・弟の家系も、楠木姓を名乗り、南朝没落後、現在の三重県亀山市関地区の住人となっていた可能性がある。この楠木氏に、楠城主楠氏の親戚にあたる娘が嫁した時から、木俣と改姓したのが木俣氏の起源である。 村田古伝(三重県鈴鹿郡村田家文書)を中心に、各種の伝説を取りまとめると、木俣氏は、楠城主楠氏の分家ともいうが、実は、伊勢国楠城主楠氏の親戚にあたる亀山市関地区住人の楠木氏(盛仲弟・末裔か?、あるいは楠木正威が庶子の家か?)に、楠城主楠氏が、その婚姻政策により、三重県亀山市関地区の楠木氏を一門衆に加えたということになる。
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