三曲(胡弓楽・地歌・箏曲)における胡弓
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江戸時代中期には盲人音楽家たちにより芸術音楽化が進み、胡弓独自の流派が立てられ、胡弓専門の音楽がつくられた。これを後世「胡弓楽」と呼ぶ。これに、同じく盲人音楽家たちの専門である地歌・箏曲を合わせて三曲と呼ぶ。胡弓専用の曲のほか、これら地歌曲の多くや箏曲の一部に胡弓を合奏することも盛んになり、ことに三曲の楽器すべてを合奏することを三曲合奏といい、盛んに行なわれた。こうして独奏楽器として、また三味線・胡弓合奏、箏・胡弓合奏、三曲合奏の1パートとして胡弓楽のジャンルが広がり発展することになる。ただし、特に江戸時代後半となると、胡弓楽と地歌、箏曲は交流が著しくほとんど一体化してしまっているので、胡弓楽という言葉はあまり使われない。また明治時代になると、三曲合奏は胡弓の代わりに尺八を用いることが多くなり、胡弓の演奏は減少したが、多くの地歌・箏曲の伝承流派は現在も胡弓の曲を伝承している。ただし胡弓楽は地歌、箏曲とは半ば独立した伝承系統を持っていることもあり、流派としては、地歌や箏曲の生田流に対応するものは流派を名乗っていないが大きく分けて大阪系、京都系、九州系、名古屋系があり、山田流箏曲に対応するものとして藤植流、松翁流がある。ほかに、大阪の政島検校(18世紀中頃)の創始による政島流があり、幕末に伝承が絶えてしまったが、現在の大阪系と関係があると思われる。また19世紀初頭に京都で活躍した名手腕崎検校の流れである腕崎流が存在したとも言われ、現在の京都系もそう名乗っているが、確かなことは分かっていない。その他品川検校による品川流があったとも伝えられるが、これについてはまったくわかっていない。名古屋系はもっともよく胡弓の伝承を守っており、吉沢派、寺島派に分けられる。吉沢派は幕末に活躍した吉沢検校の流れである。地歌曲や箏曲に胡弓を合奏させる場合、多くはほとんどユニゾンで目立ち過ぎぬように合わせるが、吉沢は胡弓に独自の旋律を与え、非常に技巧的な作曲、編曲をしており、作品のひとつ「千鳥の曲」は胡弓の本曲として、また箏の曲として名高い。また、たとえば箏曲「六段の調」に、吉沢の手付による胡弓パートが合奏される場合、特別に「長崎六段」と呼ばれるほど独自で技巧的な手付になっている。大阪系でも明治以降に菊原琴治などが独自の手付を残している。 地歌・箏曲とともに発展し、当道座の盲人音楽家によって伝承されてきた胡弓音楽を胡弓楽と呼ぶ。胡弓楽としてみた場合、その音楽は「本曲」と「外曲」に分けられる。本曲は本手組とも呼ばれ、胡弓本来のために作られた曲であり、各流派がほぼ独自の本曲を持っている(一部本曲のない流派もある)。曲によっては『鶴の巣籠』のように尺八楽との交流によって生まれたものもあるし、先の『千鳥の曲』のように箏との二重奏曲的性格の強いものもある。このほか、有名な胡弓本曲に『蝉の曲 (名古屋系・吉沢検校作曲)』、『岡安砧』 (藤植流・作曲者不詳) などがある。特に藤植流には多くの本曲が伝えられており、また幕末に断絶してしまった政島流には更に多くの本曲があった。外曲は箏曲、地歌曲を指し、きわめて多くの曲がある。ただし胡弓演奏家はほとんどが地歌、箏曲演奏家でもあるので、本曲でも伴奏として箏や三味線が入ったり、また地歌や箏曲に取り入れられたりしている曲もあり、このような分け方は尺八ほど厳密ではない。また宮城道雄以降、今に至るまで胡弓のための新作曲も多くはないながら作られている。
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