三井甲之らの参加とその後とは? わかりやすく解説

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三井甲之らの参加とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/08 08:04 UTC 版)

原理日本社」の記事における「三井甲之らの参加とその後」の解説

大正14年1925年11月5日に既に活動していた原理日本社は、超国家主義標榜し昭和9年1934年)に『原理日本創刊号にて[疑問点ノート]会の正式な言及び党の總領発表した中心人物三井甲之松田松・川合貞一・吉田要三・若宮卯之助佐藤通次新館正國・加藤繁昭和9年から1年間本社とは別に若宮卯之助主筆務めた日本新聞社内に原理日本社事務所構え顧問には、萱場軍蔵荒木貞夫就任した。 特に、皇道歌人として知られる三井甲之かねてから帝大赤化教授排撃・「帝大法学部閉鎖すべし」の声をあげていた。これは主に帝国大学在籍するマルクス主義学者自由主義的な学者糾弾し昭和戦前期学問言論弾圧尖兵となった。その最初犠牲供されたのが京大瀧川幸辰であった滝川事件)。原理日本社一派国粋主義徹していたことは、天皇絶対論を唱える帝国陸軍の「皇道派」に歓迎され真崎甚三郎大将柳川平助中将らに支持されバックボーンとなる。 原理日本社言論活動政治活動政府官吏にも大きな影響与え以降は、文部行政大学自治含めた社会蓑田化したことで、蓑田原理日本社排除する存在排除対象となるといった状態になった。その思想的影響は、旧制高校にも及んでいた。 やがて、蓑田慶大教授退職すると、川合貞一会長職を継ぎ新たなる活動開始した。 しかし、大政翼賛会発足による政党消滅により立憲民政党など批判対象失われたことから次第活動停滞していく。太平洋戦争勃発後は蓑田病状悪化による隠棲徴兵などによる人材払底、紙などの物資不足により『原理日本』も次第出版滞り、ついに『原理日本』は1944年1月1日刊行185号で事実上休刊した。そして1945年終戦後原理日本社は他の右翼団体と共に占領軍により解散させられ三井関係者公職追放された。蓑田失意のうちに翌1946年に自ら命を絶った

※この「三井甲之らの参加とその後」の解説は、「原理日本社」の解説の一部です。
「三井甲之らの参加とその後」を含む「原理日本社」の記事については、「原理日本社」の概要を参照ください。

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