一般的な歴史認識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 08:35 UTC 版)
一般には田沼意次とその時代は賄賂・汚職のイメージで語られてきたものであり、これは、そもそも意次がそのような時代風潮を作り出した首魁と見なすことも含まれる。そのような印象が先行して、戦後の学術レベルでの再評価の流れが一般にも流布するまで意次の諸政策すら顧みられることはほぼ無かった。 通俗的な歴史認識として、江戸期の政治や社会は善政と悪政の交代論というものがある。すなわち、元禄文化(悪政)→享保の改革(善政)→田沼時代(悪政)→寛政の改革(善政)→大御所時代(悪政)→天保の改革(善政)である。いわゆる「江戸の三大改革」が殊更に評価されるのは、その前に悪政が存在したから、それを改める「改革」が起こったという観点が存在し、ゆえに悪政期に行われた諸政策が個々に検討されることはなく、それがたとえ新規性を持っていたとしも「革新」や「改革」とも見なされなかった。そうした中でも特に田沼時代は、前代の享保の改革と比較され、徳川吉宗の治世を善政の見本とするに対し、田沼時代は悪政の見本と見なされた。そのため、汚職がはびこったとされるのは元禄期や大御所時代も同じだったにもかかわらず、田沼時代に限って賄賂政治の代名詞として扱われる有様で、江戸史の暗黒期としてその次代風潮すべてがネガティブな印象を持たれた。また、宝暦・天明文化として扱われる文化的側面なども、かつてはこの時期特有のものとしては評価されず、化政文化の一部として説明されるのが一般的であった。そもそも田沼時代という呼称についても、個人の名を冠されるのは日本史の時代区分名として非常に珍しいが、大御所時代と同様に、個人が国政を壟断したという基本的には悪いイメージをもたらすネーミングである。 戦前に田沼時代を評価した辻善之助が『田沼時代』を執筆するきっかけになったのも、大正期の1914年に起こったシーメンス事件において、ある貴族院議員がこの収賄事件を田沼時代に見立てて当時の第1次山本内閣を批判したためであり、こうした時代認識は創作作品にも見られ田沼父子を悪役とする紫頭巾などが製作された。ただし、数少ない例外として、辻の『田沼時代』に依った山本周五郎の『栄花物語』(1953年)では、意次を実質的な主人公として肯定的に描いている。 後述するように1960年代から始まった学術レベルでの田沼時代の再評価の流れに従って、一般レベルでの認識にも変化が見られるようになっていく。例えば高校教育では、汚職はともかく、意次の政策の革新性が扱われるようになる。文芸においては、先の山本の『栄花物語』を例外として、1970年代から変化が見られ、例えば池波正太郎の『剣客商売』では意次が卓越した政治家として登場する上に、当時の時代風潮を肯定的に描写し、少年向け漫画でもみなもと太郎『風雲児たち』で肯定的に描かれた。 近年においては後述のように大石慎三郎の研究以降、意次の汚職政治家という評価も一般レベルで改められつつある。また、竹内誠は、意次個人が時代風潮を作ったかのような一般認識に警鐘を鳴らし、「(当時が)こうした田沼の功利的経済政策の仕組みから必然化された風潮であり、田沼意次の個性とか個人的好みに、その原因を求めるべきではなかろう」と述べている。
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