一会桑政権の性格とその終焉
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「一会桑政権」の記事における「一会桑政権の性格とその終焉」の解説
一会桑政権は江戸の幕閣と一定の距離を有しつつ、京都にあって幕府勢力を代表する役割を果たした。朝廷上層部と癒着する一方、諸藩の国政参加を極力排除して朝廷を独占し、国政の指導的地位を確立することをその基本的な性格としていた。 慶喜は将軍後見職に代わって禁裏御守衛総督に就任することにより朝廷に接近する一方、幕府中央との関係は疎遠となった。幕府中央・朝廷双方に名望を有する会津藩は、朝廷・幕府間のパイプ役を自認し、軍事的な面からも「一会桑」の中核であった。会津藩は一貫して西南雄藩の国政参加の阻止に努めたことにより、雄藩とりわけ薩摩藩との対立を深め、のちの王政復古による明治新政府からの排除や戊辰戦争の遠因となった。 1865年(慶応元)4月には、朝廷において武家に関する評議は全て「一会桑」との打ち合わせの上決定するという原則が形成され、10月には3者の協力で長年の懸案であった安政五カ国条約の勅許を獲得し、幕府老中に同志である小笠原長行・板倉勝静を送り込むことに成功するなど、権力としての絶頂期を迎えた。 一会桑政権は二度の長州征討を主導したが、1866年(慶応2)8月、会津・桑名両藩の意向に関わらず慶喜が第二次征長を中止し、徳川宗家相続を機に諸侯会議を重視する姿勢を打ち出したことにより、その意義を否定される。慶喜の変節に反発した二条が9月に一時参朝を停止し、10月には松平容保が京都守護職の辞職を申請するなど、ここに一会桑政権の実質的な崩壊が明らかとなった。 一会桑政権の終焉は、この体制のもとで抑圧されてきた岩倉具視ら反幕派廷臣や諸藩の活動を活性化させることとなり、明治維新を直前に控えた国内の政治状況に大きな変化をもたらすこととなった。
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