一会桑政権の性格とその終焉とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 一会桑政権の性格とその終焉の意味・解説 

一会桑政権の性格とその終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 06:28 UTC 版)

一会桑政権」の記事における「一会桑政権の性格とその終焉」の解説

一会桑政権江戸幕閣一定の距離を有しつつ、京都にあって幕府勢力代表する役割果たした朝廷上層部癒着する一方諸藩国政参加極力排除して朝廷独占し国政指導的地位確立することをその基本的な性格としていた。 慶喜将軍後見職に代わって禁裏御守衛総督就任することにより朝廷接近する一方幕府中央との関係は疎遠となった幕府中央朝廷双方名望有する会津藩は、朝廷幕府間のパイプ役自認し軍事的な面からも「一会桑」の中核であった会津藩一貫して西南雄藩国政参加阻止努めたことにより、雄藩とりわけ薩摩藩との対立深め、のちの王政復古による明治新政府からの排除戊辰戦争遠因となった1865年慶応元)4月には、朝廷において武家に関する評議全て一会桑」との打ち合わせの上決定するという原則形成され10月には3者の協力長年懸案であった安政五カ国条約勅許獲得し幕府老中同志である小笠原長行板倉勝静送り込むことに成功するなど、権力としての絶頂期迎えた一会桑政権二度長州征討主導したが、1866年慶応2)8月会津桑名両藩の意向関わらず慶喜第二次征長を中止し徳川宗家相続機に諸侯会議重視する姿勢打ち出したことにより、その意義否定される慶喜変節反発した二条9月一時参朝停止し10月には松平容保京都守護職辞職申請するなど、ここに一会桑政権実質的な崩壊が明らかとなった一会桑政権終焉は、この体制のもとで抑圧されてきた岩倉具視ら反幕派廷臣諸藩活動活性化させることとなり、明治維新直前控えた国内政治状況大きな変化もたらすこととなった

※この「一会桑政権の性格とその終焉」の解説は、「一会桑政権」の解説の一部です。
「一会桑政権の性格とその終焉」を含む「一会桑政権」の記事については、「一会桑政権」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「一会桑政権の性格とその終焉」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「一会桑政権の性格とその終焉」の関連用語

一会桑政権の性格とその終焉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



一会桑政権の性格とその終焉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの一会桑政権 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS