ロマン派詩人として
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「エリファス・レヴィ」の記事における「ロマン派詩人として」の解説
1839年に信仰に立ち返ろうとし、ソレームのベネディクト派修道院に滞在する。ここでフェヌロンやギュイヨン夫人の静寂主義や、クリューデネル夫人の敬虔主義の著作に触れ、マリア崇拝の伝説集『五月の薔薇の樹』を出版し、これが処女作となる。しかし修道院の入院資格を認められなかったため、デューイ村の学校の生徒監となる。ここで聖書から社会主義的な思想を論じる『自由の聖書』を出版するが、「聖書の教えを不法に誤り伝えた」として8ヶ月の禁固と300フランの罰金の刑を受け、著作の全部を押収され、サント・ペラジーの刑務所に収監されて、この獄中でエスキロスに再会し、社会主義者のフェリシテ・ド・ラムネーにも知り合い、またスウェーデンボルグや様々な隠秘学の著作にも出会う。出所すると、エヴルーの教会で宗教画や小説の挿絵の仕事をしながら、1841年には女性崇拝思想を展開する『女の昇天あるいは愛の書』を出版。1844年に正統的なカトリック信仰を表すものとして出版した『神の母、宗教的人道主義的叙事詩』は、しかし聖母マリアと社会主義、最後の審判と革命論、黙示録後の世界としてのユートピアなどを述べた内容はカトリック界では受け入れられず、教会から退去させられる。 以後、個人教授をしながら執筆を続け、1845年の詩集『三つの調和』の「コレスポンダンス」は、ボードレールの「万物照応(Correspondances)」に影響を与えたことで知られる。1846年に自分が教えていた17歳の女子学生マリー・ノエミ・カディオと結婚。
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