ロマン派音楽への傾倒
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「ヨーゼフ・シュトラウス」の記事における「ロマン派音楽への傾倒」の解説
ヨーゼフは古典音楽の大讃美者であり、シューベルトを始めとするロマン派音楽に傾倒した。1855年、兄ヨハン2世に宛てた書簡のなかでヨーゼフは「私の人生は3/4拍子だけには留まらないでしょう」と書いた。「3/4拍子」とはすなわちワルツであり、純粋なダンス音楽の作曲家のみで終わるつもりはないことを宣言したのである。古典音楽を積極的に吸収しつつ、ヨーゼフは「交響楽的ワルツ」という新しい境地を開こうとした。 1857年6月8日、交際していたカロリーネと結婚した。その際に彼女に捧げたワルツ『愛の真珠』(作品39)をヨーゼフは「コンサート・ワルツ」と定義づけた。しかしこのワルツは作曲者が期待していたほどには評価されず、「ランナーのスタイルに傾いている」と新聞に評された。ウィーン市民は、兄のヨハン2世をヨハン1世の後継者として、そして弟のヨーゼフをヨーゼフ・ランナーの後継者として捉えていた。しかし、当のヨーゼフ自身は、ランナーの単なる「後継者」以上の評価を得たいと考えていた。 ワーグナーやリストをあまり評価しない批評家たちには良く思われなかったが、ヨーゼフはワーグナー、リスト、シューマン、そしてシューベルトの作品を自身の演奏会のレパートリーに加えた。ワーグナーの作品のウィーン初演はヨーゼフに任され、1860年初夏には早くもワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の一部をウィーンで演奏している(正式な初演の5年前)。その後ヨーゼフは、当時のウィーンでは演奏が難しいとされていたヴェルディの作品も、まるでワーグナーの作品とは方向性の相違がまったくないかのように演奏し始めた。同時代のドイツの作曲家ペーター・コルネリウスは、ヨーゼフを兄弟の中で最も「教養のある音楽家」と評している。 1864年9月6日、ヨーゼフはワルツ『オーストリアの村つばめ』(作品164)とポルカ・マズルカ『女心』(作品166)を初演した。兄がワルツ『ウィーンの森の物語』を作曲する4年前のことで、当時はまだ兄ヨハン2世も『オーストリアの村つばめ』のように詩的なワルツの域には達していなかった。同年10月、プロイセン王国領ヴロツワフの興行主が、オーケストラを編成して3000席のホールで演奏して欲しいと申し出てきたため、この契約に署名した。ヨーゼフは母と兄のいるウィーンから離れた場所で独自の活動ができることに気を良くしたが、期待に反してヴロツワフでの活動は惨めなものだった。ヨーゼフの手紙によると、オーケストラはあまりにも貧弱で、ヨーゼフのレパートリーでこのオーケストラが演奏できる曲にはかなりの制限があったという。 傷心のうちにウィーンに戻ったヨーゼフは、ますます熱心に古典ロマン派音楽を学んだ。シューベルト、シューマンらに加えて、ベートーヴェンやベルリオーズなども加わり、これらの楽風を採り入れた曲を書こうとした。その代表格がワルツ『ディナミーデン』(作品173)である。1865年、ヨーゼフは作曲中に突如として意識を失った。休養をとって回復した後、さらにシューベルトに傾倒し、オーケストラのレパートリーに『ロザムンデ』を加えるなどした。この時期の作品にワルツ『トランスアクツィオン』(作品184)がある。
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