ロスチャイルド家発祥の地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 02:25 UTC 版)
「フランクフルト・ゲットー」の記事における「ロスチャイルド家発祥の地」の解説
ユダヤ系財閥ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトは、フランクフルト・ゲットーで生まれた。マイアー・ロートシルトの生家「ヒンタープファン」はゲットーの通りを右に折れて、狭い東側前列の家の間の路地を東奥に入った場所にあったという。マイアー・ロートシルトは、両替商としてスタートし、ドイツ諸侯最大の資産家だったヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世(後にヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世)の宮廷御用商人となり、その資金を運用して巨万の富を得た。諸侯の宮廷御用商人になるのは神聖ローマ帝国のユダヤ人が上り得る最高の地位であった。しかしフランクフルト・ユダヤ人のゲットーからの出入りの決定権はあくまで帝国自由都市として自治権を有するフランクフルト市にあった。そのためいくら諸侯から厚遇されたとしても、ゲットーから外出するには市の事前許可が必要であった。ロートシルト家もこの許可を得るのには随分苦労し、方伯家に何度もフランクフルト市へテコ入れしてもらっている。 1780年代にはマイアー・ロートシルトは(ゲットーに限らず)フランクフルトで一番の金持ちになっていた。彼は「ヒンタープファン」を出るとフランクフルト・ゲットーの建物の中では一番間口が広かった「グリューネス・シルト」の家に引っ越した。しかしそれでも大した広さではなかったので、大半は在庫品・古銭・貨幣・証書や帳簿などを保管する倉庫で埋め尽くされた。住居スペースは限られており、ロートシルト家の10人の子供たちは一つの部屋で寝起きせねばならなかった。マイアーが職場にしていた部屋はわずか10~12平方メートルしかなかった。この狭い部屋から諸侯への金の貸し出しが行われていたのである ロートシルト家の莫大な財産を保管しておくにはこの家の倉庫では狭すぎた。そのため毎日大量に出入りするお金の管理がなっておらず、使用人による横領が頻繁に起こっていた。 ナポレオン支配下の時代にはマイアー・ロートシルトはゲットーからの自由を求めてダールベルク公との交渉に奔走した。ダールベルク公が市民権との引き換えにユダヤ人団体に要求した44万グルデンの支払いもロートシルト銀行が大半を負担した。 1994年にはマイアー・ロートシルト生誕250周年を祝ってイギリスのロスチャイルド卿はじめヨーロッパ各地のロスチャイルド家の人々がフランクフルトにおいて一堂に会した。ロスチャイルド家の人々はゲットーの遺跡が展示されているフランクフルト・ゲットー博物館、またそこに隣接する旧ユダヤ人墓地に眠るマイアー・ロートシールトの墓を訪れて、親族一同で思いを新たにした。
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