レスコー独裁政権批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:10 UTC 版)
「ルネ・ドゥペストル」の記事における「レスコー独裁政権批判」の解説
1945年に国家の助成金を受けて国立印刷所から処女詩集『火花』を出版した。当時大きな影響力をもっていた民俗学者・作家のジャン・プリス=マルス(フランス語版)に評価され、好評を博した。友人のテオドール・バケール、ジャック・ステファン・アレクシス(フランス語版)、ロロール・サン=ジュスト、ジェラール・ブロンクール、ジェラール・シェネらとともに文芸誌『ラ・リューシュ(蜂の巣)』を創刊し、翌46年の終刊まで編集長を務めた。これはシュルレアリスム運動の一環であり、同時にまた、ドミニカ共和国の独裁者ラファエル・トルヒーヨの援助を背景に大統領に当選したとされるエリ・レスコー(フランス語版)の独裁体制に抗議する運動でもあった。ドゥペストル、アレクシス、ロジェ・アングラード、ロジェ・ガヤール、イヴ・ピエール連名の「生きる前の遺言書」と題する声明で、その思想・政治・社会行動指針として「マルクス主義、レーニン主義、スターリン主義の原則に従う」と明言した。同年12月、『ラ・リューシュ』のシュレアリスムおよびアンドレ・ブルトン特集号が発禁処分を受けて政府に押収された。これは、ブルトンがポルトープランスで講演を行い、ドゥペストルの詩を朗読したのを記念して刊行した号である。ドゥペストルは『ラ・リューシュ』に「アンドレ・ブルトンの反ファシズムの信念はフランスの国境を越え、(中略)彼のシュルレアリスムは、反動的作家が固執していた古臭い価値観を断固として否定するものであった」と書いており、ブルトンとの出会いは、ドゥペストルの人生に決定的な影響を及ぼすことになった。 『ラ・リューシュ』が再刊されたのは、レスコー政権崩壊(レスコー亡命)後の1946年2月のことだが、反体制派の雑誌を発行していたドゥペストルとデケールは破壊工作を行ったとされ、1月5日に逮捕・収監された。政府の言論統制に対する大規模な抗議デモが起こり、二人はまもなく釈放されたが、ブルトン、マビーユ、ブロンクールは国外追放を受けた。ドゥペストルは、レスコー政権打倒につながったゼネストで中心的な役割を担ったマルクス主義革命学生運動の指導者らとともに、第二次人民社会党(フランス語版) (PSP) の結成に参加し、再び逮捕され、国家刑務所に収監されたが、今度もまた抗議デモにより釈放された。収監中に第二の詩集『血の花束』を書き始めた。『ラ・リューシュ』は6月に終刊となった。ドゥペストルは政府の奨学金を受けてフランスの大学に進むことになったが、これは、新政府が妥協を許さない強硬派のドゥペストルを厄介払いするためであった。
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