ブルトンとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:34 UTC 版)
「ルイ・アラゴン」の記事における「ブルトンとの出会い」の解説
1914年、第一次世界大戦が勃発。アラゴンは1回目のラテン語・科学のバカロレアを取得したばかりで、翌15年7月には2回目の哲学のバカロレアに合格。物理・化学・博物学課程 (PCN) 修了証書を得て、医学の勉強を始めたが、1917年9月に医学生として動員されて軍医補になるためヴァル=ド=グラース陸軍病院に入った。ここで同じく動員された医学生アンドレ・ブルトンに出会い、お互いに、相手が自分と同じようにマラルメ、ランボー、アポリネール、ロートレアモン、アルフレッド・ジャリなど、当時ほとんど評価されていなかった詩人に関心を抱いていることを知った。ブルトンはアラゴンにフィリップ・スーポーを紹介し、彼らの交友はやがて、パリ6区オデオン通り(フランス語版)のアドリエンヌ・モニエの書店に集まる作家、詩人らへと広がっていった。 陸軍病院で軍医補の資格を得たアラゴンは1918年6月に准士官として出征し、エーヌ県クーヴレル(フランス語版)で負傷し、クロワ・ド・ゲール勲章(フランス語版)を受けた。戦時中から詩や評論を前衛文学雑誌に寄稿し始めた。最初の記事(アポリネールに関するもの)が掲載されたのは、ダダからシュルレアリスムの移行の火つけ役とされる詩人ピエール・アルベール=ビロ(フランス語版) が編集長を務め、アポリネール、スーポーのほか、キュビスムの理論家ピエール・ルヴェルディ、未来派の画家ジーノ・セヴェリーニらが参加する前衛文学・芸術誌『SIC(フランス語版)』であった。アラゴンはまた、この頃から無政府主義の日刊紙『ジュルナル・デュ・ププル(フランス語版)』、平和主義の雑誌『ヴァーグ』、ベルギー共産党(フランス語版)の日刊紙『ドラポー・ルージュ(フランス語版)』などを購読していた。
※この「ブルトンとの出会い」の解説は、「ルイ・アラゴン」の解説の一部です。
「ブルトンとの出会い」を含む「ルイ・アラゴン」の記事については、「ルイ・アラゴン」の概要を参照ください。
- ブルトンとの出会いのページへのリンク