ブルトンの編集方針
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 06:11 UTC 版)
「リテラチュール」の記事における「ブルトンの編集方針」の解説
『リテラチュール』誌が再刊されたのは7か月後の1922年3月ことである。この第2シリーズには、新たにロジェ・ヴィトラック(フランス語版)、ジャック・バロン(フランス語版)、ロベール・デスノス、ジョゼフ・デルテイユ(フランス語版)、ジョルジュ・ランブール(フランス語版)らこの後シュルレアリスムに参加する詩人、イタリア未来派のマリネッティやフランチェスコ・カンジューロ(イタリア語版)、チューリッヒ・ダダに参加したリヒャルト・ヒュルゼンベックらが参加した。 また、ニューヨーク・ダダからはピカビアに次いで1920年頃に渡仏したマン・レイ、マルセル・デュシャンが参加した。マン・レイの代表作《埃の培養(l'Élevage de poussière)》と《アングルのヴァイオリン(Le Violon d’Ingres)》はページ全面に掲載された。《埃の培養》は当初《これがプローズ・セラヴィの領地》と題された。プローズ・セラヴィはマルセル・デュシャンの偽名であり、ロベール・デスノスの言葉遊びによるアフォリズムにこの偽名が登場するようになると、デュシャン自身もプローズ・セラヴィの名前で同様のアフォリズムを発表し始め、マン・レイの《これがプローズ・セラヴィの領地》にもデュシャンの言葉遊びの詩が添えられている。 画家ではこの他、第2シリーズ第1号にヴィトラックによるジョルジョ・デ・キリコ評とデ・キリコ自身の手紙、および彼の油彩《子どもの脳》の写真がページ全面に掲載された。 上述のように、第2シリーズ第4号からはブルトンが一人で編集した。このため、第3号まではマン・レイが制作したシルクハットの絵が表紙に掲載されたが、第4号からはブルトンの方針により、ピカビアが毎回異なる素描を表紙画として提供することになった。主に性的、冒涜的なモチーフによるこれらの素描は、ブルトンが遺した蒐集品に紛れていたのが、彼と画家・造形作家ジャクリーヌ・ランバ(フランス語版)の娘オーブ・エレウエ(フランス語版)によって2008年に発見された。製薬会社サノフィがメセナ活動の一環としてこれを買い取って国立近代美術館に寄託し、2014年にポンピドゥー・センターで開催された「マン・レイ、ピカビア、『リテラチュール』誌 (1922-1924)」展で初めて公開されることになった。
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