リトルナポレオン
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「サンフランシスコ・ジャイアンツ」の記事における「リトルナポレオン」の解説
オーナーが交代した1890年代は成績を落としたが、20世紀に入った1902年にリトルナポレオンことジョン・マグローを選手兼任監督に招き、強豪チームの仲間入りを果たす。1904年には初のナショナルリーグ優勝を果たすが、マグローはボストン・ピルグリムス(後のボストン・レッドソックス)との対戦を拒否し、ワールドシリーズは中止となった。当然ながらこれには非難が集中し、オーナーのジョン・ブラッシュはシリーズ規約を自ら提案する事を余儀なくされた。翌1905年にもリーグ優勝し、ワールドシリーズでは全身黒色のシリーズ用ユニフォームを身にまとい、クリスティー・マシューソンの3完封の活躍でコニー・マック率いるフィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックス)を4勝1敗で下し、初のシリーズ制覇を果たした。1908年には優勝争いをしていたシカゴ・カブスとの一戦でフレッド・マークルが二塁ベースを踏まずにベンチへ引き上げ、カブス側のアピールによりサヨナラ勝利が取り消され、これがもとでリーグ優勝を逃すという事件も起こっている。 マシューソン等が活躍した1910年代前半と1920年代前半に黄金期を迎え、1911年からは3年連続リーグ優勝したが、ワールドシリーズではいずれも敗れた。1921年からも4年連続リーグ優勝し、内最初の2年は当時の本拠地ポロ・グラウンズを間借りしていたニューヨーク・ヤンキースを破り世界一に輝いたが、レッドソックスから移籍してきたばかりの世紀の強打者ベーブ・ルースを徹底的に四球攻めにしたのが最たる勝因だった。しかし、観客動員数は驚異的なペースで本塁打を量産していたルース所属のヤンキースに大きく水をあけられ、これに業を煮やしたマグローはヤンキースにポロ・グラウンズからの立ち退きを命じ、翌1923年にはルースの建てた家、ヤンキー・スタジアムでもヤンキースと対戦したが、前2年のようなルース対策は効かず、軍配はルースが3本塁打を打ったヤンキースに上がり、3連覇はならなかった。 そして、1927年シーズンにはマグローはフランキー・フリッシュと衝突し、セントルイス・カージナルスの主軸打者、ロジャース・ホーンスビーとのトレードで放出したが、フリッシュがカージナルスの4度のリーグ優勝(内2回は世界一)に貢献したのに対し、ホーンスビーはチームメイト、特に遊撃手・ドク・ファレルに対して、「ショートがいなければ、ジャイアンツは優勝できるのに」と公言するなど軋轢が絶えず、結局1年限りでボストン・ブレーブス(現在のアトランタ・ブレーブス)に移籍する等明らかに失敗したトレードだった。これによりジャイアンツの黄金期は終わる事となり、世界大恐慌がようやく収まろうとした1932年にマグローは勇退した。しかし、翌1933年の第1回オールスターでもナショナルリーグ監督を務め、間もない1934年2月にこの世を去る事となる。
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