リッツ・ホテル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/05 06:27 UTC 版)
「オテル・リッツ・パリ」および「リッツ・ロンドン」も参照 1896年、世界中から投資家を募り、リッツ・シンジケート(Ritz Syndicate Limited)という会社を設立し、以降、国際的にホテルを展開した。しかし、ローマのグランドホテルのオープンを不服に思っていたカートがセザールとエスコフィエの執務室を捜索させた結果、セザールによる仕入書の改竄やエスコフィエによる私的な金銭の着服などの不祥事が露見し、1898年3月、2人は事実上サヴォイホテルから解雇された。 1898年、セザールはパリのヴァンドーム広場にホテルを建てるための理想的な場所を見つけ、リッツ・シンジケートに購入の意向を伝えたものの、「狭くて高すぎる」として計画は却下された。そこでセザールは旧友から借金をしてこれを自ら購入した。リッツ・シンジケートは、企業全体が共倒れすることを怖れ、リッツ・パリという別会社を設立し、その経営をセザールに一任することにした。 セザールは当時超一流と言われたインテリア・デザイナーを雇い、家具からグラス一つに至るまで全てカスタム・メイドにした。セザールはアール・ヌーヴォーを取り入れたがったが、ヴァンドーム広場の雰囲気に合っていないとして自ら雇ったデザイナーと意見が対立、数ヶ月に渡る議論の末、折衷案により新しいスタイルを確立することになる。その結果、ルイ16世風、リージェンシー風、帝国風、など部屋ごとに異なるスタイルの内装がなされた。そして、1898年6月1日のオフィシャル・オープンには、イギリス、アメリカ、ロシアなどから各国の著名人、知識階級、富裕層、貴族らが続々と訪れた。 その後、スペインのマドリードやイギリスのロンドンにリッツ・ホテルのチェーンを展開するなど、次々に成功を収め栄光の極みにある様に見えたセザールだが、胸中、常に、家族に会えない寂しさや自分の家柄や教養に関する劣等感を抱いていた(ちなみにセザールは英語、仏語、独語を話したが、強いアクセントがあり、また文盲だったといわれている。セザール自身が書いた文書は一つも現存せず、本人が署名した文書のみが現存する)。また5ヶ国をまたいで12のホテル全ての面倒をみなければならず、10数時間に及ぶ汽車での移動はセザールを疲労させていた。
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