ラーンサーン王国の再独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:56 UTC 版)
「ラオスの歴史」の記事における「ラーンサーン王国の再独立」の解説
ノー・ムアンに実子がいなかったことから王位継承争いが勃発し、宰相のウォーラ・ウォンサー2世(ドイツ語版)(タンミカラート)が王位を継承した。ウォーラ・ウォンサーは王位継承と同時にタウング王朝からの独立を宣言し、その後24年間に渡って執政を行った。 1622年、ウォーラ・ウォンサーが実子ユーパラート(ドイツ語版)に暗殺されたのを期に以後凄絶な王位継承戦争が勃発し、国王が即位しては暗殺されるという事態、de:Upayuvaraja I.(在位:1621–1622)、de:Pho Thisarath II.(在位:1623–1627)、de:Mom Kaeo(在位:1627–1633)、de:Ton Kham(Upayuvaraja II.、在位:1633–1637)、が続いた。 1638年にスリニャ・ウォンサー(英語版)が即位すると、57年という長きに渡る執政下で、ラーンサーン王国も繁栄期と呼べる目覚しい発展を遂げている。スリニャ・ウォンサーの改革は税制、行政、兵制に留まらず、隣国との平和維持活動も積極的に行い、越やアユタヤ王国との間で燻っていた国境の策定に尽力した。王都ヴィエンチャンはメコン川沿いの貿易港として当時有数の大都市へと発展を遂げた。また、1641年にはラーンサーン王国の歴史上において初となる西洋人の居住が確認されている。文化面においてはチェンマイ王国の初代国王マンラーイの生涯を描いた『サン・シンサイ物語』や、史実創作史『シオサワート物語』、民話『シェン・ミアン物語』などの傑作が誕生した。 しかし、1694年のスリニャ・ウォンサーの死後は再び王位継承争いが始まり、1698年にサイ・オン・フェ(セタティラート2世(英語版))が即位したことで、争いは一応のおさまりをみせた。しかし、その過程で追放されたスリニャ・ウォンサーの血族などに禍根を残す形となり、後の三王国時代へと繋がっていくきっかけとなってしまった。 1706年、スリニャ・ウォンサーの孫にあたるキン・キッサラートとインタソームの兄弟がルアンパバーンにて独立を宣言した。このとき、サイ・オン・フェ側にキン・キッサラートとインタソームを排除するだけの軍力はなく、独立を承認するか外部へ援軍を要請するかの選択に迫られた。サイ・オン・フェはアユタヤ王国に援軍を要請し、アユタヤ王国のサンペット8世は翌1707年に軍勢を派兵した。しかし、ラーンサーン王国の弱体化を狙うアユタヤは軍勢をヴィエンチャンからルアンパバーンへ動かそうとせず、結果的にラーンサーン王国は国内をルアンパバーン王国とヴィエンチャン王国の二つに分断するかたちで和議を取らざるを得ない状況となった。その後1713年にアユタヤ王国の更なる計略でチャンパーサックの地域もチャンパーサック王国としてヴィエンチャン王国から分離・独立させられてしまい、ラーンサーン統一王国の歴史は幕を閉じることとなった。
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