ラーンナーとアユタヤ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/09 16:40 UTC 版)
「シーサッチャナーライ歴史公園」の記事における「ラーンナーとアユタヤ」の解説
ラームカムヘーンの死後、スコータイ王朝の支配力は時代を経るとともに減少したが、都の衰退に陥ったスコータイと異なり、シーサッチャナーライは依然として貿易や産業的役割を維持することができた。1451年、チエンマイのティローカラートは、シーサッチャナーライをラーンナー王国に帰属させ、都を Chiangcheun (タイ語: เชียงชื่น)と改名した。アユタヤ王朝のボーロマトライローカナートは1474年、アユタヤ・ラーンナー戦争(英語版)において都を取り戻し、サワンカローク (Sawankhalok、タイ語: สวรรคโลก) と改称した。ラーマーティボーディー2世の統治時代、シーサッチャナーライにおけるティローカラートとボーロマトライローカナートの戦いの物語に啓発されて不詳の詩人が記述した『リリット・ユワンパーイ』 (Lilit Yuan Phai、タイ語: ลิลิตยวนพ่าย)は、アユタヤ王朝の最高の詩の1つとされる。 シーサッチャナーライは、アユタヤ王朝がフィリピン、日本、インドネシアなど海外に輸出する陶磁器の生産に栄える中心地となった。この繁栄期は13世紀に始まり16世紀まで続いた。この都は14世紀に経済および文化的発展の頂点に達した。1766年、泰緬戦争(1765-1767年)において、ラムパーンよりビルマ軍がシーサッチャナーライを攻撃して都を破壊した。戦後、現在のサワンカロークの新市街に都は再建され、旧市街は放棄された。
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