ランツフートの機動
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「1809年オーストリア戦役」の記事における「ランツフートの機動」の解説
ダヴーは問題に気づき、2000名の守備隊を残してレーゲンスブルクから彼の軍団を撤退させた。ケールハイムとバート・アプバッハの間を北上するオーストリアの隊列は、19日の早朝にノイシュタット・アン・デア・ドナウに向かい西に進んでいるフランスの4つの隊列と遭遇した。オーストリアの攻撃は緩やかでまとまりが無く、熟練のフランスの第3軍団に速やかに撃退された。ナポレオンはダヴーの防御している地点で戦闘が行われている事を理解しており、既にダヴーがオーストリア軍を撃退するための新たな戦略を考案していた。一方オーストリア軍は北のマッセナの軍団も攻撃した。マッセナは全オーストリア軍の戦線を包囲し、ダヴーへの攻撃を緩和するために南西のフライジングとランツフートを攻撃した。マッセナの軍団には後にニコラ・ウディノの軍も加わった。ナポレオンは別働隊がオーストリアの後方を掃討する間、ダヴーとルフェーヴルを合わせた軍団によってオーストリア軍を釘付けできる自信があった。 フランスの攻撃が始まると中央のオーストリア第5軍団はアーベンスベルクの戦い(英語版)で敗北し、フランスが進軍するための道を引き渡した。しかしナポレオンはこの時誤った仮説を元に動いていたため、目標を達成させる事が困難だった。マッセナのランツフートへの前進は非常に多くの時間を必要としたので、ヒラーがイザール川を渡って退却する事を許した。レーゲンスブルクへ出入りできるドナウ川の橋は、東岸は破壊されていなかったため、オーストリアは川を渡り、フランスの望みであった敵軍の完全な殲滅は達成出来なかった。20日、オーストリア軍は10,000名の損害、30門の大砲、600箱の弾薬、7000両の車両の損害を被ったが、依然として戦闘力を保持していた。その日の午後に、ナポレオンは戦闘していたのがオーストリアの2個軍団に過ぎず、カール大公はシュトラウビングを超えて東に退却する機会があった事を思い知った。 21日、ナポレオンはダヴーからトイギ・ハウゼンの戦い(英語版)についての公文書を受け取った。ダヴーは依然として彼の陣地を保持していたが、75,000名のオーストリア軍と対峙するためにナポレオンはダブーに36,000名の増援を送った。最終的にカール大公が東に撤退しなかった事をナポレオンが知った時、後にランツフートの機動として知られる作戦で使用するための大陸軍の主力を再編成した。ヒラーを追撃している20,000名のベシェール配下の軍勢を除き、戦力として使用できる全フランス軍はエックミュールを攻撃することでオーストリアを罠に陥れ、包囲されている戦友を救い出そうと努力した。4月22日、カール大公はダヴーとルフェーヴルを攻撃しアバッチへ行軍させて右岸を確保ために、40,000の兵をローゼンベルグとホーエンツォレルンに預けコロウェットとリヒテンシュタイン指揮下の2個軍団を切り離した。しかし午後2時、ナポレオンがマッセナを引き連れてダヴーの元に到着した時ダヴーは直ちに反撃を命じた。第10軽歩兵連隊はルーチリングの村を強襲し、多くの損害を被りながらルーチリングの森を占領した。さらにナポレオンの増援はオーストリアの左翼に速やかに打撃を与えた。こうしてエックミュールの戦い(英語版)はフランスの勝利に終わり、カール大公はドナウ川を渡りレーゲンスブルクへ撤退する事を決意した。ナポレオンはシュトラウビングを占領するためにマッセナを東に進める一方、残りの軍は逃亡するオーストリア軍を追撃した。ランヌ元帥の壮烈な突撃の後、フランスはレーゲンスベルクを占領(英語版)したが、大部分のオーストリア軍はボヘミアに退却する事に成功した。ナポレオンは注意を南のウィーンへと変えて、ヒラーの軍と連戦した。この時の最も有名な戦いは5月3日に行われたエーベルスベルクの戦い(英語版)であった。5月13日ナポレオンはウィーンに無血入城をした。
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