メガワティ指導部の登場と追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/01 09:45 UTC 版)
「インドネシア民主党」の記事における「メガワティ指導部の登場と追放」の解説
こうして弱体化した党を立て直すために担ぎ出されたのが「スカルノの子供たち」であった。スカルノの長女メガワティ・スカルノプトリは1986年にPDI中部ジャワ副支部長に就任し、翌1987年には総選挙にみずから出馬、当選して国会議員になった。同選挙ではPDI自体も議席数を24から40に伸ばし、さらに1992年選挙では党の議席数を56にした。 「スカルノの子供たち」を担ぎ出すことで「スカルノ・ブーム」を巻き起こし、党勢の回復に成功しつつあったPDIだったが、これは政権側の警戒感をにわかに強めることになった。 1993年7月、メダンで開かれた定例党大会は、「スカルノの子供たち」の担ぎ出しに成功した党首スルヤディを再選したが、これをスハルト政権は認めなかったため、党首人事が宙に浮いてしまった。そこで同年9月、PDI地方党員数百人がメガワティに党首就任を要請。続く同年12月のスラバヤでの党大会で、おもに党の地方支部の絶大な支持を受けて、メガワティ・スカルノプトリがPDI党首に就任したのである。 もちろんメガワティの党首就任をスハルト政権側が歓迎したわけではない。そのため、メガワティは当初から、パンチャシラ・1945年憲法・国軍二重機能の支持を表明し、政府に受け入れられる指導者像を自ら演出することに腐心した。そして、最終的には政権側もメガワティの党首就任を「祝福」(スハルトが承認)した。スハルトの娘、シティ・ハルディヤンティ・ルクマナ(通称トゥトゥット)がメガワティと会見するなど、スハルト政権とメガワティ民主党の関係は安定するかに見えた。 しかし、メガワティの党首就任に奔走したPDI新執行部や、その周辺の一部メガワティ支持者のあいだから、スハルト政権に対する批判的な発言が相次いで飛び出し、また、メガワティもこれを放置したままであることが政権側の怒りを買った。同時に、PDI内穏健派も党の急進化に危機感を強めていった。 こうしたスハルト政権とPDI内穏健派とのあいだでどのような取引があったのかはわからないが、1996年6月、メガワティ執行部のあずかり知らないまま、政府・国軍の後押しを受けて、メダンで臨時党大会が召集され、政府・国軍関係者臨席のもとで、前党首スルヤディが党首に選出された(「メガワティ降ろし」)。 このPDIでの「政変」後、スルヤディ派はメガワティ派にジャカルタの党本部の明け渡しを要求し、これに抵抗したメガワティ支持者を建物から強制排除した。これに怒った党メガワティ派のみならず、一般庶民多数がジャカルタ市中心部で暴徒化し、鎮圧に当たった軍との衝突で、死者5人、負傷者百数十人、多数の行方不明者が出た(「7月27日の悲劇」)。 政府はこの暴動を扇動したとして人民民主党(PDR)を弾圧、左派を一掃し、メガワティの責任もきびしく追及した。その後、党首の座を奪われたメガワティは、一時期政治の表舞台では影響力を失った。その後のメガワティの動向については「闘争民主党」の項を参照。
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